日陰の小道

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パーレルという名の届かぬ故郷―― バミューダトライアングル~カラフル・パストラーレ~ 読解・感想

かつて、子どもだった頃のわたしにとっては住んでいる場所が世界の全てで、その外のことは何もわからなかった。
学校に上がる前の頃、両親が隣町まで行ったと聞けばずいぶん遠くまで行ったものだと思った記憶がある。中学生ぐらいになって自転車に乗るようになると、ぐっといろいろな場所が近くなって感激したことを覚えている。自分一人でもあそこまで行ける――そんな感覚は歳を重ねてできることが増える度に増していった。そしてそれから更に時が経ち、田舎から出てきた都会の生活にもいい加減慣れてきた私にとって、そんな気持ちがあったことは長らくすっかり忘れていたものだった。
バミューダトライアングル~カラフル・パストラーレ~』(以下カラパレ)という作品は、わたしにとってそんな子供時代をどこか懐かしく思い返させるアニメだった。みなさんにとってはどうだろうか?

光り輝くスポットライト。
キラキラふわふわ、かわいい衣装。
笑顔輝くダンスに魅惑のチャームボイス。
大都会のステージで、まばゆい光が照らすのは、
水中を自由自在に泳ぎ踊る"マーメイドアイドル"

そんな大都会から遠く離れた、
のどかなパーレル村に集った少女たち。
自分たちが将来そんなきらめく姿になるとは
想像もしていない彼女らは、
今日食べるおやつのケーキひとつで大騒ぎ。
そんな、毎日に一生懸命なマーメイドたちの
賑やかな日々のものがたり。(公式サイトより)

colorful-pastrale.com
youtu.be

劇場・陸上・都会――広がる世界と「少女たち」の物語

序盤(1~5話):パーレルの内側で

カラパレの舞台となるのは、小さな小さなパーレル村。テレビも潮の流れ次第で映らないし、携帯電話の電波も満足に届かない。周囲は岩肌に囲まれており、隣町まで行くにも一苦労ということになりそうな集落。けれども村で暮らすソナタたちにとってはそれが当たり前で、自然で、毎日のケーキがあればそれで楽しい日常であった。そんな彼女たちの前に古びた劇場が突然現れたのだから、それはもう一大事である。大海流*1によって木々が倒されたことで現れた、かつて使われていた劇場。古びた扉を開けると、そこには『キネオーブ』と呼ばれる投影装置によって映し出された映像が広がっていた。未知の出来事にソナタたちは驚きの連続で、すっかりこの劇場に魅せられてしまう。
ここで注目すべき部分は、この劇場は大人たちにとっては周知のものだった、という事実である。ソナタたちにとって大発見だったこの場所は、「子供が入ると危険だから」と大人たちによって隠されていたものでしかない。少女たちの物語であるカラパレにおいて村の大人陣が核となるエピソードは「基本的には」存在せず、少女の低い目線で見た世界が描かれてゆく。大人たちはそれを見守る立場、というわけだ。


序盤、物語はこの劇場再興のエピソードを中心に進んでゆく。劇場再興というやりたいことを見つけ果敢に挑もうとするソナタに、失敗を経てなお挑戦を続けるセレナとフィナ、他者に喜んでもらうということを意識するキャロ。劇場オープンまでの物語を通じて、このグループの面々が少しずつ成長してゆく様が丁寧に描かれている。
更に、劇場絡みと並んで軸となっているのがカノンについての物語だ。外部から訪れたカノンが村、そして後の『カラフル・パストラーレ』の面々であるソナタたちと馴染めるかどうかが大きな要素となっており、劇場・カノンの両輪の物語で連続性を生み出しながら進んでゆくのが序盤の流れとなる。
ここでこの2つの流れに共通するのは「発見」である。田舎の村を訪れて「何もない」と評していたカノンは、かけがえのない友人となる"人"を「発見」する。また真新しいものがないように見える村にも"劇場"というスポットが「発見」される。時間が止まっているかのようにすら思えてしまう田舎ののんびりとした空気の中にも、そこに確かに人々はいて、世界は緩やかに変化してゆく。同じキネオーブの映像を眺めていたとしても感想は十人十色で、それ故に面白い。カラパレの序盤は、狭い村という場所を舞台にしながらそこで足元を見つめ、内側に新たな世界を見つけてゆく話であった。
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5話より。劇場を覗くソナタたち。

中盤(6~8話):パーレルと外の世界

さて、劇場の再興が一段落した後のエピソードでは「内」から「外」の発見へと移ってゆく。外と言っても様々で、そしてそこには色々な隔たりがある。6話の「過去」には"時間"の隔たりがあり、7話の「都会」には"文化"の、8話の「陸上」には"生活"の隔たりがあった。違う場所には更に違う人がいるもので、これらのエピソードではゲストキャラクターが登場し、ソナタたちや村の面々と関わってゆく。ソナタたちにとっては「外」のどれもが真新しく映り、刺激を受けながらも様々なことを知って、経験する。それによって彼女たちの生きる世界は、村の中だけの狭かったものからどんどん広がってゆく。


「外」と関わるということは外部の視点を受け入れることでもあり、故に「内」を再発見することにも繋がる。7話で登場するゲスト、都会の売れっ子アイドルのチェルは、ソナタたちが懸命に再興した劇場を「古臭くて価値のないもの」と一蹴してしまう。ここでそれに対して激昂するのがかつて「外」から来たカノンなのである。カノンは「ここにはたくさんの想いがつまっている」と反論するが、実は他でもないカノンこそがかつてこの村を「何もない」と(悪気がないにしろ)評してしまっていたのだ。*2すっかり村の一員として溶け込んでいたカノンの内に秘めた変化が、チェルとの対比を通じて改めて「再発見」されるのがこのエピソードなのである。そして一方のチェルもまた、パーレルを訪れることでアイドルとしてのかつての想いを「再発見」している。
ここで「内」と「外」の関わりが生む相互作用は、序盤に描かれていたパーレル内での人々の関わりと同一のものと言えるだろう。便宜上"今のパーレル"を「内」、"それ以外"を「外」としてここでは話したが、ミクロな視点に映ると「わたし」と「あなた」もまた「内」と「外」の関係に他ならない。逆に言えば世界という広いステージで考えてみると、パーレルとそれ以外を線引するのはナンセンスということでもある。
広い世界と関わり、影響を受け、与える。そうしたあり方こそが、パーレルという狭い世界でだけ生きていた少女たちの「世界」が広がったということなのである。
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7話より。チェルを見送るカノンたち。


もう一つ、ここで面白いのが8話のエピソードだ。この作品唯一の陸上を舞台にしたこの話はアニメ全体においても特に異彩を放っており、基本舞台が水中舞台ならではの視聴体験を生み出す。これはわたし個人の感想にはなってしまうのだが、水中で自由自在に泳ぎ回る軽やかさにすっかり慣れていた視聴者のわたしは「陸上がり」によってソナタたちが地面から離れられない様子にたまらなく重苦しさを感じてしまった。普段このわたしはその陸上で生きているにも関わらず、である。
軽やかに飛ぶ蝶や鳥、空に向かって真っ直ぐに伸びる木々、どれもが水中の様子とは全く違った世界にソナタたちは驚く。"マーメイド"と"ヒト"の違いを端的に捉えた『それはね、靴っていうの』というサブタイトルも非常に鮮やかだ。そして"ヒト"であるわたしたち視聴者もまた、ソナタたちの反応によって陸上のあたりまえを「再発見」する。世界はこんなにも驚きと発見に満ちていたのだ。
ここでそういえば思い出す――このアニメ作品を見たときは、その奇妙な水中生活そのものが真新しく映っていた。水中にも関わらずお茶を優雅に入れるその姿には思わずツッコみたくなってしまったこともあるが、同時にだからこそ「ふしぎな世界」としてパーレルの生活が面白く感じられた。階段のない建物の作り、水を受ける「風車」、鳥の代わりに魚の意匠の「風見鶏」……そんな文化的差異にいつの間にか慣れていたところでこの陸上のエピソードがやってきたわけである。
このわたしという視聴者とカラパレとの関係の変化は、まるで都会からパーレルを訪れたカノンがパーレルに慣れ親しんでいくようでもある。 1話で『パーレルへようこそ』というサブタイトルの言葉を受けたわたしたちもまた、気がつくと世界の一部となっていたのだった。

終盤(9~12話):外へと向かう少女たち

終盤では今一度パーレルという場所や、そこで暮らす人々のことを見つめつつも、旅立っていく少女たちの姿が描かれている。ここで大きな役割を果たしているのが「映画」である。ソナタたちが夢中になった劇場は映画を流すための場所であるが、それは映画そのものが素晴らしく刺激的なものとして彼女たちの前に到来したからに他ならない。ゆったりと時間が流れるような村の変化とは異なり、映画の中にはドキドキとワクワクが詰まっている。村にいながらにして様々な世界を追体験できる――そんな映画に特に魅力を感じていたのは、作品序盤において率先して行動を起こしたソナタであるように思える。しかし、それ故に彼女の関心は始めから村の外にもそれなりに向いていたように感じられて仕方がないのだ。*3


さて、この終盤においては「映画」そのものがエピソードに深く絡んでくる。これまでは劇場で放映するだけだった映画に、撮影という概念が登場してくるのだ。9話では都会からの撮影班がキャロをキャストに抜擢し、そして10話では村祭りの様子を映画として残すべくソナタがカメラを回す。これまでずっと"見上げるだけ"だったはずの映画は気がつくと彼女たちの手の届く身近なところに存在している。更に9話と10話を比較してもこの期間で映画という存在がぐっと身近に迫っており、9話では"都会の象徴"だったはずの映画は、10話においては祭りの非日常とはいえ"パーレル"そのものが映画として扱われるところまで来てしまっている。ソナタたち少女の世界は、いつの間にか映画という異世界だったものを生み出す側になるぐらいに広がってしまったのだ。もしかすると10話ではそれと同時に――あたりまえだった"パーレルの生活"それ自体が遠いものとなっていくことが示されているのかもしれない。


クライマックスであり唯一直接話が連続している11~12話では、カノンが再び結晶化*4をしてしまう。「破れたアイドルの夢をもう一度都会で目指したい」「いつまでも村の友達と一緒にいたい」そんな相反する2つの感情に苦しむカノンは、変化を否定するように硬い硬い結晶の中に閉じこもってしまう。
そして、ここで変化を恐れているのはカノンだけではなく、ソナタにとってもそう。村への愛着、都会への希望、そしてそれと同時にある大きな不安――「アイドルのオーディションを5人で受けたい」そんな物言わぬカノンの望みにたどり着いた残る4人だったが、そこでつい「できるわけない!」と不安がってしまうのはソナタなのだった。しかしソナタにも本当はもうわかっている、未知の世界には"ワクワクドキドキ"が詰まっているものであると。そうして今までの歩みに背中を押されるように、彼女たちは変化を受け入れてゆくのだった。


世界は常に変化していく。人と人とがふれあい、その時生きる世界が交錯するならば、そこに変化はどうしても生じる。永遠に留まるものは何もなく、どんなものも変わらずにはいられない。この物語は、そうした世界の成り立ちをソナタたちが受け入れるまでのお話だったように思う。
しかしそんな中で変化しないでいたいと思うものを同時に選び取るとしたら、それもまた尊い選択であるとわたしは信じたい。「少女の成長」の物語を真っ向から描くとしたら、彼女たちはどうしたって「大人」にならなくてはいけないのかもしれない。それでも捨てることだけが大人ではないと、そうした希望がこの物語の中にはある。だからこそ、都会のアイドルになっても「5人いっしょ」の仲良しグループのままがいいと願ったマーメイドの少女たちの選択に、まばゆい輝きと力強さを感じてしまうのである。
それに、まだちょっとぐらい子供っぽくてもいいではないか。なぜならマーメイドというものは「ゆっくり大人になる」のだから。

ソナタ「伝説のことを、時々考えます。真珠が粉々に砕けたことは悲しいことだけど、いくつもの破片が、今もどこかで、小さな光となって輝いているんだとしたら、それは、素晴らしいことだと思います!」
( 第12話『小さな光となって輝いて』より)

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12話より。ステージの上に立つ5人。

過去と故郷への想い―― 少女たちを見守る大人たち

かつて少女だった大人

先の文で書いたように、このアニメは少女たちのための作品であった。大人マーメイドたちは基本的に見守りサポートする立場であって、ストーリーの中心になることはほぼない。
ただ少し例外もあり、中盤でのゲスト登場のエピソードにおいては、6話で村民のフェルマ、8話での陸住みのグラディスが大きく関わってくる。しかし、フェルマは過去との通信で少女時代の彼女とフィナが関わる……というストーリーだったし、グラディスはトゥインクルパウダー*5によって少女の姿になっていた。特に後者に関しては本質的には大人であるグラディスを掘り下げるお話ではあるのだが、しかしそれでもビジュアル面において「大人と子供」という図を作り出さないようにしよう、という意図を見出すことができる。


大人にも人生がある。フェルマの件もそうだが、他のパーレル村の大人たちにもかつて少女としての物語があった。10話において、アルディは「こんな村早く出て行ってやろうと思っていた(のに居着いてしまった)」と昔を懐かしんでおり、大人たちの人生がここでようやくちらりと示される。前述の通り、この10話は"パーレル"を映画にするエピソードであり、ソナタたち少女のパーレルでの日々がいつか終わりを告げることを感じさせるものだ。この頃のカラパレ終盤は、(この頃の本人にまだその気がなかったとしても)物語としてはソナタたちが旅立つことを踏まえており、だからこそアルディたち大人世代の情報が差し込まれてきたのかもしれない。出ていこうと思っていた大人たちがこの村に残ってしまったように、今その気がなくとも少女たちは村を巣立っていってしまうかもしれないのだ。アルディも、そうしたことを予見していたからこそソナタに村の記録を要請したのではないかと思える。

マルトレ「わかるわ~、アルディはあの子達が心配なのよ!」


フェルマ「何だってできる、どこにだって行ける。だけどそれを知らないか、とんでもないところに行っちゃいそうになる。海は狭くて広いから」


マルトレ「マルタがそうだったみたいに……ね」

(第11話『この曲は』より)

私も故郷を離れて暮らす身だが、世代的に流石に少年少女の顔だけをするわけにもいかず、どうしてもアルディたち大人の眼差しに同調してしまうことも度々ある。「少年少女の物語」が終わった大人にとってはこうした子どもたちの日々は終焉を迎えてしまうことが体験としてわかってしまうのだ。だからこそ、カラパレの大人たちからは少女たちの健やかな成長を祈るかのような、優しげな視線を投げかけているようにも感じられる。
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1話より。アルディがくつろぐフェルマの店に今日も騒がしい団体がやってくる。

ヴェラータという人物

カラパレに登場する大人たちの中で、わたしがひときわ惹かれてしまう人物が存在する。それが、最終話で登場したヴェラータという人物である。アルディのシェルシス*6である彼女はかつてパーレル村で暮らしていたそうだが、今は故郷を離れ遠い都会の地で暮らしている。恐らく昔アルディたちと村の悪口を言いながら、本当に一人ずっと村を離れているのがこのヴェラータなのだろう。彼女のパーレルに関してのセリフからは、そうした故郷への愛憎相半ばする感情が読み取れる。

ヴェラータ「私は――私は、なんてつまらないところだろうって思ってたわ。早くここを出たくてしょうがなかった。アルディは一度ここを出たけど、また戻ってきた。それを聞いたときは「かわいそうに、なにを好き好んで!」って思ったわ。カノンもきっと退屈だろう、すぐにアトランティアに戻りたくなる、そう思ったのに。」
(第12話『小さな光となって輝いて』より)

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12話より。村を見下ろすヴェラータ。

パーレルを「つまらないところ」と酷評しつつも、結晶化したカノンを療養させるため自らの故郷であるパーレルへと送り届けたヴェラータ。上記セリフもどこか穏やかさを含んでいる。彼女がカノンの療養先としてパーレルを選んだのはなぜだろうか? もちろん信用できるシェルシスであるアルディがいる……ということも大きいだろうが、本当に嫌いな場所に大切にしてきたカノンを送るだろうか。ソナタたちのパーレル案内に対しても「よく知っている」とばかり話す彼女が、心からパーレルを憎み続けているようにはどうも思えない。
ヴェラータはカノンの保護者的な存在であると同時に、カノン以外で結晶化したことがあるということが語られている唯一の作中人物でもある。ヴェラータの結晶化に関してはほんの少し触れられただけで、なぜ彼女が結晶化したのかはわからない。ヴェラータはカノンと非常に近似するこの要素を持ちながら、都会からパーレルを訪れ、そしてこの場所が好きになったカノンとは真逆の過去を持っている。


思うに、カノンがパーレルを訪れることはカノンとしては知らない場所でしかないが、ヴェラータとしてはある種の里帰りのようなものだったのではないだろうか? 彼女が、カノンの困難の際に親しい者の逃げる先としてパーレルを選んだのは、故郷の重力に引かれてしまう望郷の念のような心情を想像してしまう。
一方で、当の本人のカノンにとってはやはりパーレルという場所は新天地である。それ故にこの擬似的な里帰りは、昔を懐かしむことだけにけして留まらない。あくまでもこれは過去への逃避だけではなく、未来への前進なのだ。そしてパーレルへの愛情を語るカノンの手紙の言葉によって、ようやくヴェラータは今のパーレルを見つめることになったのではないだろうか。ソナタやカノンによって新たなスタートを切った村の古びた映画館は、唯一ヴェラータにも称賛をもって迎えられた。
もっとも、これらはわたしのそうした故郷への心情のフィルターによってそう見えてしまっているだけかもしれない。多くが語られぬヴェラータという人物に対して少々過ぎた解釈ということは理解しているが、このアニメ作品にはどうにも不思議とそうした感傷を思い起こさせられてしまう。

故郷という届かぬ場所

故郷は場所であると同時に、現在から時間の隔たりがあるものである。記憶の中の世界は変化する。人々も、風景も、町並みも。住んでいた場所の名前が変わってしまうこともある。わたしの故郷も多くの市町村が平成の大合併により変化した。住んでいた市はそのままの名前を保っているが、あの遠く感じていた隣町は今では同じ市の一部になってしまった。通っていた学校も今度合併するらしい。
年に数回ほど故郷に帰る。それなりの田舎であろうとやはり変わるものはあって、見知った場所がなくなったり、知らない場所が増えたりする。その一方でやはりそこには「何もなさ」が有って、時間の進み方が緩慢であるように感じられてしまう。そんな風に思っているのに、なぜだろうか、私にとってはだだっ広い田畑の中にぽつりぽつりと家が立ち並んでいるあのもの寂しげな光景を、懐かしく、愛おしくも思うことを否定できないのだ。


詩人の室生犀星は小景異情(その二)において「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と書いている。この詩全体に関しての読解をここで語れるほどの持論はないのだが、肌感覚として「遠くから想う」ことしかできないというその言葉には思わず頷きたくなる。最早どこにも存在し得ないかつての故郷を追い求めるのはナンセンスであり、記憶の中の風景は現実から解き放たれているからこそ美しく感じられるものだからだ。
創作物であるアニメーションもまた現実世界とは違って揺るがない記録だからこそ、完璧なまま美しさを保つ。だからこそわたしはこのアニメ作品を、村を巣立ったソナタたちの過ぎ去りし思い出のフィルムのように感じてしまうのかもしれない。騒がしかった日々は既に終わりを告げ、その儚さと切なさに胸が締め付けられる。だが不可侵の過去だからこそ、永遠にまばゆい光を放つのである。
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OPより。

パーレルは海の底に存在する村だ。この地球上のどこにも存在しないし、実際にわたしが町並みを見ることは叶わない架空の村。そんな決して手の届かない場所だからこそ、そこにわたしは決して戻ることのできない「故郷」を不思議と重ねてしまう。今日もわたしは、この都会からたどり着けない遠い遠いワンダーランドのことを想っている。世界に漂うクラゲとなって、少女たちの未来を祈りながら。

*1:作中の描写から考えると我々にとっての台風に近いような自然現象であろう。急に現れて去っていく、という性質などからまったく同質のものではないだろうが。

*2:7話冒頭、カノンは「都会から来た女の子」という点で周囲が自分とチェルを重ねるのを否定するが、チェルもまた悪気なく「何もない」とパーレルを評し、カノン自身がかつての自分を重ねてしまい悔しさで涙を浮かべる一幕がある。

*3:1話冒頭で、ソナタよりも年上と思われる「マルタ」というマーメイドの近況が村の住人からソナタに語られる。姿も出てこないマルタというマーメイドだが、そんな彼女の向かった都会にソナタが何を感じていたのか、それは作中では直接語られない。もしかすると、ソナタ自身もうまく理解していなかったのかもしれない。同1話でセレナがのほほんと「私は結構ここ(パーレル)が好きだな」と話す姿とはどうにも対照的に思えてしまう。

*4:マーメイドが強いストレスを感じたとき、真珠のような球体の結晶に自ら閉じ込められてしまう現象。1話でのカノンは結晶化状態のままパーレルを訪れ、ソナタの呼び声に反応し結晶が割れている。

*5:マーメイドが陸上で過ごすため、尾びれをヒトの足に変化させるパウダー。相性があるらしく、セレナも小さい子どもの姿になってしまっていた。

*6:同じ貝から生まれた姉妹のような存在。セレナとフィナもシェルシスである。