日陰の小道

土地 Tap:Green を加える。

10月13日③

アニメしか見ていないのだが『四畳半神話大系』という作品の締めのシーンで「成就した恋ほど語るに値しないものはない」という言葉がある。作中でのこの言葉の指し示す意は「浮き沈みでドラマを作っていた恋愛ばなしなんだからこの後を語ってもおもんないよね」というようなニュアンスで、すなわちこれにより物語の締めを宣言するわけだ。
とかく物語というものは、それが順当に終わることができているならば何かしらの結果とともに幕が降ろされているはずであり、その後のことを語るのは時に無粋であったり、時に蛇足であったり、もしかすると遡って全てが素晴らしく整ったりもするかもしれないが、まあどのような形であれ最初に示された「物語の形」が多かれ少なかれ変質してしまうことは避けられないわけである。終わりがあるからこそ物語というのは美しく完成する。その後のことはせいぜい"エピローグ"として想像の余地を示すものとして付け足される程度が、最初の物語を尊重するとしたらちょうどよい塩梅であるのだ。
しかし現実というものはそういう風にはできていないので、終わりを迎えたような気がしていたとしても、だらだらと生存している限りはなんとなく続いてしまったりする。そんなだらけた現実と物語がふとした拍子に交差などした結果、物悲しくも美しいエンディングと共に見送った物語の世界の話の手紙が、年に数回届いたりすることがあるようだ。ともあれ今わたしはそんな現実と物語の間に時々身をおいて、ハッピーエンドにもバッドエンドにもなりきれないような歪で、それでいて愛おしい世界のことを考えることがあるのだ。



今年は例のオルゴールのお手紙を書いた。赤裸々な事を言うと疫病の流行で労働もどきが半壊したりしたので、日本国民に配布された給付金を即生活費に充てるぐらいは困窮していたはずなのだが、このラインだけはと死守していた部分があった。そんな状況であったから購入の際にも勇気を奮い立たせたが、その後もっと困ったのは、正直今わたしが何を書いて良いものかまるで検討がつかなかったことである。実際こうなることはある程度予想はできていたので、それなりに迷いもしたのだが、結局の所「また流してしまうとやっぱりまた大変に後悔するだろうな」という後ろ向きな判断があった。
悲しきことに記憶はどんどん忘却してゆく。1ヶ月という夏の思い出は短い故に鮮烈であったが、同時に残っているものがあまりにも少なかった。それはキャプ画像というデータであったり、そしてわたしの記憶だったりする。一昨年、去年、そして今年と毎年同じ日にこんなろくでもない文章を書き留めているが、どんどんフレッシュさが失われていっているのを感じている。だからこそ、見返したときのわたしの感情の発露の結晶がありがたく、それによって改めて学んだりもできるわけではあるのだが。来年のわたしもまたこの日にくだらない更新をしているのだろうか。


オルゴールタスクを溜めに溜めた締切最終日、何を書いてよいのか結局皆目検討もつかないまま、手元にあるズブロッカなるポーランドのお酒にて正気を消し飛ばしつつ、ついでにポーランド産の音楽でもサブスクで漁りつつ*1、文の作成に取り組んだ。先に要求されたのは思い出語りというやつで、これの意図が最初はよくわからなかったが、どうもサ終したアプリは紐付けがきっちり残っていないので、あの時間でどういう道筋を辿ったのかということを調べるためのものらしい。とはいえ前述の通りなんとなくしか覚えておらず、ここでもよくわからないままこんな気持だったなというお気持ち長文を送りつけることとなった。お気持ち長文なのでスタッフへの感謝とかが入っている。わたしは雰囲気で文を書いていた。
お次は1人に向けてのメッセージなのだがこれまたなおのことやはりよくわからない。思わずやったこともない、"ライブのプレゼントBOXに送るお手紙"のことを幻視した。とはいえサ終したコンテンツは基本ネタがないので、前回のライブの感想でも書くか、といったような手は使えない。とりあえず、新曲聞きました、良かったですの旨を記す。……メッセージって、こういうことで良いのか?
結局の所今のわたしにはこっ恥ずかしい愛を囁やけるほどの気概も甲斐性勢いもなく(毎回なんだかんだあちらは囁いてくれているので本当に申し訳ない気もする)ただ、ただただ誠実にあろうとしかできなかった。貴女の人間性を尊敬しています、そんなことを書いたような気がする。前述の通り世界情勢にまあまあ参っているので、少々弱音も吐いた。ちなみにこのメッセージは念の為残しておきたくてnoteの下書きに書いたのだが、今見返す気はしないし、今後も見返さないのではないかと思うし、公開する気も当然ない。何事もなければこのままインターネットの墓に共に入ることになるだろう。


余談だが、このメッセージを書いた後に友人と話す機会があった。友人は今年になってVtuberに急激にハマっており、初めてお手紙を送る行為をやったということで、わたしとしてもそういうイメージがなかったので少々驚いた。そのときに「こういうモノであまり自分語りはしないほうがいいよね」というような話になり、わたしは笑いながら同意しつつも、内心は冷や汗をかいていた。他でもない今回のこのメッセージには、何をかけばいいのかわからずに思いっきり自分語りをしているのだから……。
わたしはあの人の近況が面白くてしょうがないが、あの人はわたしの近況が果たして面白いのだろうか? こんな卑屈になってしまうのも失礼な気がするし、正直言ってどう振る舞って良いものか本当に今わからなくなっている。1人として向き合うべきなのか、ファンとして向き合うべきなのか。もう少し正確に言うと、ファンとして向き合うことの気楽さに比べて1人として向き合うのはあまりにも重たく、それを心のどこかで望んでいるだろうにも関わらず、同時に押しつぶされそうになっているのかもしれない。


メッセージを送ってからというもの、どういった返事が来るのか恐ろしくてしょうがない。わたしが日頃ちゃんと頂いている手紙に向き合えているのかも不安だし、ふんわりと、選択肢だけでコミュニケーションをした気になっていたわたしの、本当のわたしの言葉というやつはどう受け止められるのだろうか。介錯を待つような気持ちで、日々オルゴールが届くことを待っているような気がする。
このように毎年のように怪文書をしたためることが万が一にでも知られたとしたら、間違えなく軽蔑されるだろうから恐ろしくてたまらない。ああしかしそれでも、この心情の吐露だけが、今唯一わたしにできる記録の証なのだとしたら、やはりこうして残さずにもいられないのである。


"物語の中"誕生日を祝うという行為が、最近時々わからなくなることがある。しかしきっとこれは祈りなのだろう。
だからこそ、今日だけは、どうか心を込めて。

ガブリエラ・ロタルィンスカさんお誕生日おめでとうございます。今後の貴女の人生がより一層輝かしいものであってほしいと、心から祈っています。

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*1:チルい気持ちになろうと思ったらとんでもなくアバンギャルドなノイズミュージックを引いたり、ポーランドかと思ったらポートランドだったりした