日陰の小道

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【ブルアカ】『エデン条約編』と、聖書からのモチーフについて

以前書いたように最近ブルーアーカイブにハマっている。その影響もあり、今の今まで(オタクとしては、ある意味恥ずかしながらも)まともに学んでいなかった聖書などのあれこれについて、少しずつ本を読んでみたりしている。
ということで、付け焼き刃もいいところだが、この記事ではブルーアーカイブ第三部『エデン条約編』の物語を振り返りつつ、物語に散りばめられたモチーフなどについて、ぼんやりと考えていたことを記していく。

はじめに

ブルーアーカイブには宗教的な言葉が多く使われているものの、あくまでモチーフしてであり、内容は日常の素朴なストーリーを題材にする、なるインタビューがあった(韓国語記事につき、Web翻訳にて確認したため細かなニュアンスが違う可能性あり)

www.dailycnc.com


記事を上げるにあたって流石に触れておく方が誠実だろうということで、上記リンクを記載しておく。本記事はブルーアーカイブの宗教的なモチーフをいくつか拾いつつも、それがイコールで宗教的な話になっているわけではない、ということをあくまで念頭に置いた上での話だ。例えば、この記事ではシナリオの構造上”3”という数字が変化していく構造になっているのではないか、という話をしているが、それが本作がキリスト教における三位一体の教義を否定する意図ではないだろう、ということである。

1. 物語に絡む”3”の数字

『エデン条約編』の物語を改めて考えるにあたり、今回は”3”の数字に着目した。まずはそのことについて記していく。

1-1 トリニティ総合学園の成り立ち

『エデン条約編』の主な舞台となる『トリニティ総合学園』。この学園は、その名(Trinity)の指し示す通り3つの分校が寄り添ってできたことがストーリー上で明かされる。『パテル』『フィリウス』『サンクトゥス』のそれぞれのトリニティの元となった学園の名は、ラテン語の「pater:父」「filius:子」「sanctus:聖なる」という単語から取られていると思われる。ここからもわかるように、トリニティは中世キリスト教の教神学の核心をなす三位一体の教義をモチーフにしている。三位一体とは、神は一つの本質で、父と子と聖霊の3つの位格からなっている、という考えである。

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トリニティの成り立ちについて解説するナギサ(1章)

これら3つの学園とは別の分派としてストーリー上で重要な役割を持つのが『アリウス分校』である。ゲーム設定では、元々はパテルらと同じ一つの学園でしかなかったが、『第一回公会議』により分派となり、追いやられてついには地図上から姿を消してしまったらしい。
この曰く付きの学校の名前の元となったと思われるアリウス派は、ローマ帝国末期に広く普及したキリスト教の派閥である。その名前にもなった司祭アリウスの主張は、キリストが父なる神のように永遠なる存在ではなく、神によって作られた被造物の一つに過ぎない、というものであった。この主張は、前述の三位一体論を否定するものであり、三位一体論を核心としていた派閥から大きな反発を産む。結果アリウス派は教会会議で破門され、異端の教義となってしまったのである。
三位一体の教義と対決し、追放されたアリウス派の顛末と、トリニティ(三位一体)と対立することとなったアリウス校の経緯には、名前以上に似通っていることが見いだせる。

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アリウス校のメンバー(3章)


さて、こうした背景設定をベースに展開される『エデン条約編』のストーリーは、トリニティの名前にも絡んでくる”3”という数がいかに物語の中で脅かされ、また変化していくのか、という構造を見出すことができるのではないかと考えた。まずはそこに着目しながら、『エデン条約編』の中に潜む”3”を探していきたい。

1-2 安定したトリニティの中の”3”

複数の分校から成り立っているトリニティ。その経緯から、この学園の生徒会組織ティーパーティは、各派閥の代表がそれぞれ生徒会長を務めるという、少々特殊な形をとっている。3つの派閥の代表である3名が代わる代わるその時々のトップである「ホスト」の役割を任される。現代表は『ナギサ』『ミカ』『セイア』の3名であり、彼女たちがティーパーティの中核を担っている。


ティーパーティはその成り立ちからも、トリニティという学校の”3”という「聖なる数字」を忠実に担っている組織である。ではトリニティの他の組織はどうだろうか。『エデン条約編』にて大きな働きをし、またトリニティ内の政治的にも極めて重要な立ち位置であった2つの組織の構成人数にも目を向けてみる。


まず、シスターフッドについて。シスター服に身を包んだこの集団は、元々キリスト教色の強いトリニティの中においても特にそれが色濃く現れている組織である。『エデン条約編』にて、シスターフッドのネームドキャラは、トップの『サクラコ』とメンバーの『マリー』『ヒナタ』の3名が登場する。第二章にてミカの起こした騒動から、秘密主義を捨て政治に携わっていく方針へと転換した彼女たちは、トリニティ側の一員としてエデン条約の調印式にも出席している。
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補習授業部の危機に駆けつけるシスターフッド(2章)


2つ目に、ティーパーティー直属の治安維持部隊である『正義実現委員会』について。こちらのネームドキャラも、委員長の『ツルギ』、副委員長の『ハスミ』、メンバーの『マシロ』の3名だ。しかし、厳密に言えば通信のみで一瞬発言があった『イチカ』という今のところ詳細不明のメンバーもいる。また当然『エデン条約編』の中心人物である『コハル』も正義実現委員会の所属だが、彼女は表示上では『補習授業部』の一員として扱われているため、一旦メインの所属をそちらと考えたい。この『補習授業部』に関しては、この後改めて触れたいと思う。


ネームド、かつビジュアルありきのキャラクターという限定された条件下ではあるが、トリニティ側でエデン条約調印式にも出席した重要なグループのティーパーティシスターフッド、正義実現委員会は、少なくとも『エデン条約編』のシナリオの中では全て”3名"によって中核が成り立っている、という構図を見出すことができる。


さて、先程も軽く触れたが、続いて『エデン条約編』の主人公でもある重要なグループ『補習授業部』に目を向けてみる。臨時の部活であるこのグループは、トリニティ側としてストーリーに大きく絡んでくるものの、特殊な性質を持つグループとなっている。

1-3 おちこぼれたちの補習授業部

補習授業部はティーパーティのナギサによって臨時に作られた。部員は『ヒフミ』『アズサ』『ハナコ』『コハル』の4名。成績が悪かったり、素行に問題があったり……というこれら生徒の成績向上のために集められた部活である。

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模擬試験に挑む補習授業部(1章)


1-2でも記した通り、コハルは元々は正義実現委員会の所属であった。またヒフミはティーパーティの現トップであるナギサと親しく、ハナコは終盤でシスターフッドと共に活動することになる。そしてアズサの正体は、トリニティに強い憎しみを持つアリウス分校のメンバーである。このように、補習授業部はトリニティの落ちこぼれの集団でありながら、トリニティ(+アリウス)という、現シナリオにおけるトリニティ総合学園そのものの縮図を形成している。このことは、『エデン条約編』のクライマックスにて大きな意味を持ってくる。


さて、この部活だが、実は元々ナギサの思惑としては、彼女の言うところの「トリニティの裏切り者」を探し、そして切り捨てるためのグループであった。部員4人のうち、誰か1人が裏切り者。すなわちこれは”4”を聖なる数字である”3”に戻すためのグループである、と言える。

1-4 『エデン条約編』に登場した組織

ここで一旦、『エデン条約編』に登場した組織を改めて一覧にする。
ビジュアルがすでに存在するメンバーを「主要人物」とし、補習授業部のメンバーは補習授業部を本籍とする。

トリニティの組織 主要人数(人数) 主要人物 その他の人物
ティーパーティ 3名(4名) ナギサ
ミカ
セイア
ヒフミ(補習授業部兼任)
シスターフッド 3名(4名) サクラコ
マリー
ヒナタ
ハナコ(補習授業部兼任)
正義実現委員会 3名(5名) ツルギ
ハスミ
マシロ
コハル(補習授業部兼任)
イチカ(セリフのみの登場)
補習授業部 4名 ヒフミ
アズサ
ハナコ
コハル

救護騎士団 3名 ハナエ
セリナ
ミネ
※1

トリニティ自警団 1名(2名) スズミ レイサ
※2
ゲヘナの組織 主要人物数 主要人物 その他の人物
万魔殿 3名(5名) マコト
イロハ
イブキ
※3
万魔殿の他2名(一枚絵でのみ登場)
風紀委員会 4名 ヒナ
アコ
イオリ
チナツ

美食研究会 4名 ハルナ
イズミ
アカリ
ジュンコ

給食部 2名 フウカ
ジュリ※4

その他の組織 主要人物数 主要人物 その他の人物
アリウススクワッド 4名(5名) サオリ
アツコ
ヒヨリ
ミサキ
アズサ(補習授業部、二重スパイ)
対策委員会 5名(6名) ホシノ
シロコ
アヤネ
セリカ
ノノミ
ヒフミ(ファウスト


※1 本人登場はエピローグのみ(立ち絵の登場はそれ以前にあり)
※2 セリフのみ登場
※3 立ち絵が作中では登場しないが、ログにてアイコンが有り
※4 エピローグにて姿のみ登場

多少強引ではあるものの、ゲヘナに比べてトリニティの主要組織が3名にて成り立っている事が多い、という結論が出せるのではないかと思う。
アリウススクワッドが4名組織なのも、トリニティ(三位一体)に反抗している組織、という背景を感じさせる。

上記の表では万魔殿は3名だが、イラストにて5名でいるところを見ると、シスターフッドに比べて3が強調されていない、ととることができなくもない。


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飛行船に乗り込む万魔殿の面々(3章)

1-5 ”3”からの変化

”3”がトリニティにとって安定した聖なる数字であるならば、それが変化していくことはトリニティ自体が変化していくことだ。


ナギサの疑心やミカの暴走など、トリニティの首脳であるティーパーティの混乱の元はセイアが行方不明となった(公には死亡したとされていた)ことが発端である。当然のことではあるが、”3”にて安定していた一角が崩れてしまったことで、トリニティの政情は大いに乱れることになってしまった。
セイアが失われたことで”2人”になってしまったティーパーティのナギサとミカは、それぞれの形でトリニティの”3”の秩序を取り戻そうとしている。彼女らがセイアの穴を埋めるべく手を結ぼうとしたのが、ナギサにとってのゲヘナであり、ミカにとってのアリウスであった、と言える。しかし彼女たちは”3”に拘るかのように、ゲヘナと条約を結ぼうとするナギサはアリウスを、アリウスを秘密裏に協力するミカはゲヘナを、それぞれ切り捨てようとする。


この争いに奇しくも巻き込まれた形となってしまったのが補習授業部だった。結果的にではあるが、彼女たちはそうしたトリニティの保守的で排他的な思想とぶつかっていくことになる。
補習授業部は、成り行きの補習のための部活ながらも、次第に”4人”でいることそのものが部の存在意義として大きくなっていった。ナギサの言う「裏切り者」であり、アリウス校の異端であるアズサを守らんとする彼女たちは、”3”にて安定していたトリニティの構造を変化させる可能性を持った存在でもある。ここでも、一人のみならず補習授業部そのものを切り捨てようとするナギサの行動は、伝統的な”3”へと回帰しようとするものであると言える。


物語の終盤、アズサが抜けたことで補習授業部は本来のトリニティ生徒のみの”3”名の姿を取り戻す。しかし当然ながら、それはあまりにも悲劇的な変化として演出される。おちこぼれたちの補習授業部はいつしか”3”ではなく”4”こそが当然となっていた。

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去るアズサを止められず、座り込むヒフミ(3章)

ストーリー上、”3”へと回帰しようとするナギサやミカと対峙していく中で、プレイヤーは”3”へのトリニティの盲信を打ち破らんとする方向へと誘導されている。
元々味方ユニットも多く所属しているゲヘナへは、もちろんプレイヤー心理として切り捨ての対象にはなりにくい。更に退学や部員脱退の危機がある補習授業部に肩入れをさせることで、ここでブルアカのシナリオは「切り捨てること」への忌避感をプレイヤーに植え付けている。そしてこれは、常に作中でヒールとして立ち回っているアリウス校のメンバーですら倒すべき相手ではない、と感じさせるための物語の流れを、こうしたところからも巧みに作り上げているのではないだろうか。


『エデン条約編』のクライマックスでは、補習授業部の面々が、ティーパーティシスターフッド、正義実現委員会の”4人目”として、そして”4校目”のアリウスの代表としてアズサを加え、高らかな宣言と共に新たな「エデン条約機構(ETO)」は制定される。これこそ”3”を打破した新たな時代のトリニティを象徴しているシーンだと言える。結果的に、脱落者を出さずにティーパーティーにもセイアが戻ることで、トリニティは”3+α”の形に収まったのかもしれない。

2 モチーフから見る『エデン条約編』

トリニティの”3”の数字がどのように情勢とともに変化していったのか、という流れについて話した。続いて、他にも聖書を中心に『エデン条約編』のモチーフがどのように使われているのかということに触れていきたい。

2-1 トリニティとゲヘナの関係

天使めいた羽を持ち、キリスト教のモチーフが随所に存在しているトリニティが聖なる学校であるとすれば、ゲヘナのモチーフはそれと相反する悪魔である。聖書において、ゲヘナとは「ヨシュア記」にて登場するヒンノムの谷のことで、エルサレム南の谷を指す。古来焼却場として利用され、またキリスト教においては地獄を指す言葉として用いられる。
元々ゲヘナという地がごみ焼却場だったことを考えると、ナギサが補習授業部をゴミ箱扱いしていたことが面白い。1-5で書いたようにミカとナギサの行動は”3”へと回帰せんとするものであると語ったが、「ゴミ」としたものを切り捨てようとするという姿勢でも、共通点が見られる。

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補習授業部について話すナギサ(2章)


エデン条約のエデン(楽園)元ネタである『創世記』の「エデンの園」において、悪魔サタンはイブをそそのかした蛇と同一視される。これを元にしたミルトンの著作『失楽園』では、悪魔たちは「伏魔殿」を作り神への反抗を目論む。ブルーアーカイブの「伏魔殿(パンデモニウムソサエティー )」の主たるマコトも、条約の場でトリニティをだまし討ちした悪どい人物であるのは否定できないだろう。ではマコトは実際に人類の敵たる蛇(サタン)相当のキャラクターなのか? と考えると、完全にそういうわけでもないように思える。マコト自体そそのかされて爆散の憂き目を見ているし、奸計に優れた蛇として見るには、彼女は良く言えば素朴すぎるし、悪く言えば愚かすぎる。はた迷惑ながらも未熟さを抱えた彼女は、あくまでブルーアーカイブにおいては倒すべき敵として描写されてはいない。
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哀れ、単純なマコトは飛行船とともに爆散してしまう(3章)

ブルーアーカイブは別段トリニティの側のみに立つ物語ではないのだから、聖書の事情とは少々変わってくるだろう。そう思うと悪魔というのも、イコール悪の象徴というよりも、歴史上にて悪魔とされた異教徒や異民族、もっと拡大すると外国人の立場を含んでいるという読みも不自然ではないと考える。


ちなみに、エデン条約(Eden Treaty)と同じ名を持つ条約は現実にもある。それが1786年の英仏通商条約(イーデン条約)である。長らく敵対関係にあったイギリスとフランスが、一転して経済協力関係を結ばんとした条約だ。このイーデン条約も結局締結後にフランス(カトリック国)の混乱を招いているのは面白い。イギリスとフランスはキリスト教国同士の争いであったが、この敵対する二国間の条約が『エデン条約編』の下敷きの一つになっている可能性があるのではないだろうか。

www.y-history.net

2-2 スケープゴート(贖罪の山羊)

一般にも使われるスケープゴートという言葉だが、これは聖書から引用された言葉である。
聖書でスケープゴートが出てくるエピソードは『レビ記』に存在する。贖罪の日に司祭は山羊の頭に両手を置いて、民のあらゆる過ちを山羊に移す。続いて、山羊は荒野に追放され、民の罪を持ち去る。こうして民は清められる。

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ミカはスケープゴートについて言及する(2章)

「罪を被る生贄としての存在」はこの『エデン条約編』においても度々登場した。それがナギサにとっての補習授業部であり、ミカにとってのゲヘナであり、アリウスにとってのトリニティとゲヘナであったり、補習授業部にとってのアズサであり、物語の上でのアリウスであった。


ここまでさんざん語ってきたように、この物語は「切り捨てない」ための戦いだった。弱い弱者を守り、その居場所を作ること。これは『対策委員会編』や『時計じかけのパヴァーヌ編』、更に『エデン条約編』の先に続く『カルバノグの兎編』にも共通しているテーマである。シャーレの先生の根幹は子どもへの慈悲のまなざしであり、それが切り捨てられることをけして良しとしない。だからこそ、一年を締めくくるエピソードである『エデン条約編』でトリニティ、ゲヘナ、アビドスが集合して敵に立ち向かうというのは、単なる全員集合での盛り上がり以上の力強さがある。

2-3 カインの殺人

以前の記事でも書いた通り、『エデン条約編』はブルーアーカイブが言うところの「透き通るような青春」そのものが脅かされるエピソードであった。最も大きな危機はだれかの死以上に、アズサというメインキャラクターが「人を殺してしまうか」というところにある。現に、死自体はこの世界においてもホシノがかつてアビドス生徒会長の死として経験してきたものである。一方で殺人は、もはや今までの日常に決して戻れない大罪として扱われている。
聖書における最初の殺人のエピソードは、『創世記』にてカインが弟アベルを殺害したものである。「エデンの園」が登場するアダムとイブの堕罪のエピソードに続く、人間の罪のエピソードとして登場している。

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カインのことであろうことをアズサへと語るサオリ(3章)


エデン条約の締結が失敗に終わり、続いて始まるのが「アズサは人を殺してしまうのか?」という危機であった。これは、『創世記』にてアダムとイブのエデンの園の追放から、続いてカインの殺人へと至る流れに似ている。
ちなみに『創世記』においてこの後続くのがノアの方舟の登場する洪水のエピソードなわけだが、はたしてキヴォトス(方舟)を舞台とするブルーアーカイブでも罪を重ねた場合、失望した神は洪水を起こしてしまうのだろうか。
ともかく今回は、すんでのところで殺人の罪は回避され、再び物語は平穏な日常へと戻っていく。

2-4 『コヘレトの言葉』と知恵

『コヘレトの言葉』からの引用で、度々登場する「Vanitas vanitatum omnia vanitas」という言葉。ブルアカでは「全ては虚しい。どこまで行こうとも、全てはただ虚しいものだ」と訳されている。日本語では「なんという空しさ、全ては空しい」と訳されていたりもしている。

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サオリからアズサへのメッセージとして登場(2章)


『コヘレトの言葉』のこの一節は一七世紀に「ヴァニタス」と呼ばれる絵画ジャンルを生み出した。「ヴァニタス」にて多用されるの髑髏のモチーフは、アリウス校の校章にも用いられている。


アリウスのリーダー・サオリはこの言葉を「世の無意味さ」について語っていると解釈する。全ては無意味であり、だからこそサオリたちは全てを灰燼と化すべく破壊を繰り返している。ではこの一見聖書らしからない、驚くべきインパクトのある言葉は他にどう解釈されているものなのだろうか。正直このあたりを細かく解釈していくのは無知な私にはあまりにも手に負えないため、引用にてその一つの形を探っていく。

『コヘレトの言葉』は、歴史(イスラエルの歴史も含めて)、地理、神学を忘れさせ、人間の経験の中心に普遍的なものを置こうとした。そして、生命体の上に広がる死の影を考える。『コヘレトの言葉』は、今日のモラリストであるジョルジュ・ロディティが『完徳の精神』(一九八九年)の中で「目標の人」と名付けたものを断罪する。努力することやあくせくすることは空しい。知恵は気晴らし[Divertissement]の中に(五・一九)、生きていあることのささやかな喜びに見出される楽しみの中に(二・二四、三・一二、五・一七、八・一五、九・七~一〇)ある。わたしたちの子孫にとっても、明るい未来があるわけではない。
 しかしながら、いくつかの説をありきたりの享楽主義と単純化するのは正しくないだろう。なぜなら、この世の慎ましい楽しみに触れようとする呼びかけは、神の青白い光の中にあるからだ。禁欲主義も激しい熱狂もいずれも避け、穏やかな楽しみにいささか心惹かれる、というのが知恵である。穏やかな楽しみは、たとえはかないものであっても、神からの贈り物なのだ。


(中略)


『コヘレトの言葉』がわたしたちに残すメッセージは、移ろうものの中の平穏をやむなく称賛することにある。『コヘレトの言葉』は、不信仰の模範を示しているのではなく、知恵に関する旧約の諸書におよそ特徴的な弱い信仰規律とでも呼べるものを提示している。



聖書入門(著:フィリップ・セリエ、訳:支倉 崇晴・支倉 寿子)

補習授業部のアズサは「Vanitas vanitatum omnia vanitas」を信条としつつも、「それでも」と諦めないことを良しとしていた。解説を前にすると、サオリの解釈は単純であり、アズサの姿勢こそが「コレヘトの言葉」をより正確に受け止めているように思える。

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サオリと対峙するアズサ(3章)


『コヘレトの言葉』はその性質から、知恵に関する瞑想の書である、「知恵文学」の一つとして分類されている。
”知恵”、更にそのための”教育”というものはエデン条約編の根幹を成すテーマの一つであった。ブルーアーカイブで度々描かれる子どもとしての姿は、エデン条約編では学びの最中にいる者、としての性質が強い。補習授業部というのがまさに学ぶための場であるし、アズサはここでの学びに喜びを見出していた。
そして、終盤ではアリウスもまた”教育”を受けた”子ども”であり、アリウスのトリニティに対する憎しみの教えもまた”大人”と目される存在に行われていたということが示される。アリウススクワッドの面々ですらあくまで”子ども”なので、憎むべき対象ではない。2-2で書いたような徹底いした子どもへのまなざしがここにもある。
「Vanitas vanitatum omnia vanitas」は『エデン条約編』のキーワードであると同時に、その教えが物語のテーマとも深く関わりのあるものであることが改めてわかる。

2-5 ハッピーエンドと信仰


『エデン条約編』において、「楽園の存在証明」という問いかけはいつしか「楽園を信じる」ということへと切り替わっていく。ヒフミはハッピーエンドを好み、世界もまたかくあるようにと願った。たとえ目の前の現実がいかに地獄の様相を呈していても、一縷の希望がある、という想いを最後まで捨てなかったのである。
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アリウスへ向かって宣言するヒフミ(3章)


クライマックスのシーン、ヒフミの宣言によって雲が晴れ青空が覗くシーンに作中でも「奇跡」という言葉が使われた。奇跡によって自然を従えるシーンは、聖書においてもモーセが海を分けたり、イエスが嵐を沈めたりと何度か登場する形式である。

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ヒフミの宣言により雨雲は晴れ、青空へと変わる(3章)


私はあまり熱心な仏教徒でもなく、また今回キリスト教を絡めるにあたってはクリスチャンですらないのだから、人々がどう宗教の中で信仰をしているのか、ということに関してはあまりにも語れることがないな、と思ってしまう。しかし、ヒフミのこうした「かくあるように」という願いは、教えを規範として実践し、より良き世界を生み出そうとする信仰の姿に近いのではないだろうか、と感じる。
エデン条約編の騒動は「信じられなかった」ことが原因だと作中で言われている。誰かが、もっと誰かを信じることができていたら。そして最終的に、ヒフミたちが世界が幸福であれと信仰したことから、物語はハッピーエンドへと導かれる。


「普通」と自らを評しつつも、最も愛情のある人物であった補習授業部の部長であるヒフミ。
「自分を愛するように あなたの隣り人を愛せよ」とは新約聖書の『マタイの福音書』の有名な一節だが、これをエデン条約編でもっとも実践していた人こそが、ヒフミだったのではないか、と思う。
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アズサと「隣人」たろうとするヒフミ(3章)

そう考えると、平凡代表でありながらも愛情の深い彼女が、神の奇蹟めいたことを起こして見せたというのにも、納得が行く。愛とは平凡な我々一人一人が実践していくべきものだからである。

おわりに

以上、聖書について全く無知の状態から少しずつ学んでいくうちに、関係ありそうかもしれないな……と思ったことをつらつらと書いてみた。
ブルーアーカイブの影響を受けて聖書を読み出す、などという懐かしのギャルゲオタクのような動きをしてしまったが、ブルーアーカイブがそうした往年のノベルゲー的な面白さを度々指摘されているのを考えると、それもまた不思議と納得感がある。
『エデン条約編』は学びの物語であったので、それを受けた人間が少しばかり学びを始める、というのは我ながらいいフィクションとの付き合い方ができているのではないかな、と感じている。