日陰の小道

土地 Tap:Green を加える。

アニメ『BLUE REFLECTION RAY / 澪』における、The Smiths/Morrissey要素の解説と考察〈6〉(第16話~第18話)

後半クール第二弾です。ようやく完走が見えてきた気がしますね。

<前回までの記事>(クリックで開きます)
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第16話 ラバー・リング(Rubber Ring)

今回はタイトルそのまま『Rubber Ring』です。詩集でも「ラバー・リング」の同タイトル。
スミスのシングル『The Boy With The Thorn In His Side』のB面曲で、コンピレーション盤の『The World Won't Listen』などに収録されています。

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『Rubber Ring』とはそのままゴム製のリングのことです。ゴムのリングが指すものは浮き輪のことであったり、またレコードプレイヤーの部品だったりします。この楽曲は人々がかつて聞いた(そして、今は忘れてしまいがちな)人々の心を救ってくれた歌のことを歌っています。つまり、救命時に使われる浮き輪とレコードプレイヤー(歌)を「ラバー・リング」のモチーフで重ねていると解釈されたりしています。

A sad fact widely known
The most impassionate song
To a lonely soul
Is so easily outgrown
But don't forget the songs
That made you smile
And the songs that made you cry


(Rubber Ring / The Smiths


ブルリフとしてはまず一つ当然”リングと指輪”で重ねている部分があるでしょう。このエピソードでは涼楓と亜未琉が指輪を手にして新たにリフレクターに変身しています。
アニメ前提で曲を考えていることもあり、この曲そのものにも先程の浮き輪-音楽のラインに更に誓い/契約の指輪が重ねられているんじゃないかな、なんてわたしは思ってしまいます。後半、歌手の目線でかつて聞いた歌を忘れてしまう”あなた”への気持ちをモリッシーは恋愛めいたニュアンスで歌っています。

I'm here with the cause
I'm holding the torch
In the corner of your room
Can you hear me ?


(Rubber Ring / The Smiths

Do you
Love me like you used to ?
Oh ...


(Rubber Ring / The Smiths


アニメと楽曲の関連を探ると、今回は”過去の想い”に関しての共通点でしょうか。
先に書いた通り今回は涼楓と亜未琉がルージュリフレクターに変身し、陽桜莉や瑠夏たちと敵対してしまうというショッキングなエピソードでした。ここで対峙するルージュとリフレクターの争点になるのは「亜未琉がかつて抜かれた想いは戻せるのか?」という点です。そのためにコモンを開こうとするルージュと、コモンの開放を防いで他の方法を探ろうとするリフレクター側の戦いが起こっています。
対立する彼女たちですが「想いを取り戻す」という点では一致しています。そして「想いを取り戻す」のは『Rubber Ring』で歌われる「かつて聞いた曲(過去の想い)を忘れない( don't forget the songs )」ということに通じていると解釈できます。

瑠夏と陽桜莉は現実とコモンの間でユズ・ライムと出会い、想いを戻せるということを伝えられる。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第16話より


涼楓と亜未琉の思い出として音楽が登場しているのも、かなりストレートに『Rubber Ring』とリンクしている部分ですね。ちなみに、13話のバスのシーンでは涼楓と亜未琉がイヤホンを互いの指に絡ませているのが指輪のように描写されていたりもしました。



リフレクターの力によって亜未琉の想いを感じる涼楓は、懐かしさとともにそれを「失った響き」と表現する。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第16話より


”想い”は「その人だけのもの」であり、そしてそれ故に「例え奪われたとしても誰のものにもならない」とコモンの番人たるユズ・ライムは語ります。スミスが『Rubber Ring』で歌ったのはそんな”想い”や記憶を忘れないでという願いでしたが、ブルリフの世界で亜未琉の”想い”を取り戻すためにはフラグメントが必要です。
今回は主に亜未琉とその周辺のエピソードでしたが、もう一人過去の”想い”を思い出さなくてはならない、知らなくてはならない人がいました。それが陽桜莉です。今回のラストで、彼女は仁菜により、姉・美弦の過去を覗くことになります。それは美弦の過去の”想い”だけではなく、陽桜莉自身がリセット前の世界でどういう"想い"を持っていたかということに向き合っていくことになります。



仁菜は陽桜莉を強引に引き寄せ、美弦の過去を見せようとする。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第16話より

仁菜が美弦との契りによって得た美弦の記憶は、陽桜莉に共鳴の円形派とともに伝えられます。ちなみに、今回新たにリフレクターの姿となった涼楓と亜未琉は音叉(円形の波長)チャクラム(輪)とどちらも”リング”(円)に共通する形を持ちます。”共鳴やリング”がアニメに登場するのは今回に限った話ではありませんが、「ラバー・リング」という題だけあってか特にこの円形のモチーフが多く見られるエピソードだったように思います。


そういえば、もう一人過去と向き合おうとした人がいました。それは仁菜です。彼女は母から受け継いだキャリーバッグを後生大事に抱えていましたが、今回それを破壊して中に何が入っているのかを確かめようとします。しかしその中には何も入っていません。冷蔵庫が空だったかつての仁菜の家庭のように、仁菜の母の精神が壊れてしまっていたが故でしょうか。彼女自身には大切に守るべき過去の記憶がない、というのがなんとも悲しいシーンです。しかし過去が空っぽということもまた過去を思い出し、向き合うことに他なりません。それは1クール目で結局仁菜が、何もないと自嘲しつつも想いを捨てられなかったことからもわかります。本当の今回進むべき決意をした仁菜は、陽桜莉にとって、そして物語にとっても極めて重要になる行動を取りました。
完全に余談ですが、キャリーバッグの中身が空っぽというシチュエーションに、スミスのコンピレーション盤『Hatful Of Hollow』(帽子一杯の空)のことをふと思い出しました。

第17話 エンジェル・エンジェル(Angel, Angel, Down We Go Together)

今回は『Angel, Angel, Down We Go Together』ですね。詩集は同タイトルの「エンジェル・エンジェル」です。
Morrisseyの1stアルバム『Viva Hate』に収録されています。

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楽曲の内容はシンプルで、”エンジェル”が傷ついていくことを悲しみ、愛を語る曲です。
ネットで検索していくと1992年にモリッシーがインタビューで「この曲は自らの元を去っていくジョニー・マーのことを歌った曲」と語っているというエピソードが出てくるのですが、出典は見つけられませんでした。それはともかく『Viva Hate』はモリッシーのソロキャリアの1stアルバムですので、そこにはどうしてもスミス解散のドラマを背景に感じてしまいます。特にこの曲はバンドサウンドから脱却し、静かにストリングスとモリッシーの声で聞かせる曲ですから、このアルバムの中でも特にスミス時代との差異を押し出した楽曲だなあと思います。

Angel, Angel
don't take your life tonight
I know they take
and that they take in turn
and they give you nothing real
for yourself in return
and when they've used you
and they've broken you


(Angel, Angel, Down We Go Together / Morrissey

Angel, don't take your life
some people have got no pride
they do not understand
the Urgency of life
but I love you more than life
I love you more than life
I love you more than life
I love you more than life


(Angel, Angel, Down We Go Together / Morrissey

それにしても、相手を”天使”にたとえているにも関わらず、傷ついた”エンジェル”に寄り添うことを「Down We Go Together」とタイトルにしていることに彼らしいユーモアを感じます。”天使”って明らかに天のイメージがあるのに、「Down We Go Together」で地に堕ちてしまっています。ここにも相変わらずスミスの初期から歌われること、それこそ『Hand In Glove』から続く「わたしたちはみすぼらしいけど、奴らに持っていないものを持っている」と同じ捻った世界観が存在しています。一見すると相反するものを、それこそが真実として歌っているのです。


アニメの話に移りましょう。今回は歌詞のシンプルさ故にアニメとの関連も掴みやすい気がします。かつての美弦の記憶。傷ついていく相手を見かねて、悲しんでいる……という物語はどちらにも存在しています。
母が失踪後の平原家で、美弦と陽桜莉はともに暮らしています。姉である美弦は「陽桜莉には笑って欲しい」と願い、アルバイトを始めたり、陽桜莉が学校へいくことを応援します。美弦にとって、”エンジェル”は陽桜莉です。


ここで更に面白いことが、このエピソードにも”花”を軸にして”天と地”の対比があることです。1話冒頭などなんどか作中で使われてきた、平原家のオルゴールの音色であるシューベルトの『野ばら』ですが、今回は平原姉妹がメインの回ということで特に頻出です。『野ばら』はタイトル通り「路傍の花」であり、これは最終回でもわかるように「見捨てられた少女たち」を”花”にたとえています。『野ばら』は名前の通り”地の花”です。「見捨てられた少女たち」はその苦しみの想いとつながっているフラグメントですから、「路傍の花」たるフラグメントの花も”地の花”です。


リフレクターとなった美弦は、触れることによってフラグメントを浄化する。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第17話より


一方で”天の花”も描かれます。今回の冒頭で美弦と陽桜莉が見上げた”花火”。これも文字通り"花"ですし、更に「たまや~」が「はなや~」と間違えられていることからも"花火"は”天の花"です。花火はそのロケーションから陽桜莉が入学する「月の宮」とつながっており、更に学校の入学には桜の花としてのイメージが今回提示されています。"木に咲く桜の花"も「路傍の花」と逆に位置づけられた”天の花”でしょう。手の届かない花が”天の花”で、触れられる花が”地の花”です。
今回のエピソード内容をご存知の方には明白でしょうが、この”天と地”の対比はそのまま平原姉妹のすれ違いを表現しています。美弦は自分にとっての”Angel”である陽桜莉を、苦しみがなく輝かしい”天の花”であってほしいと願っています。しかしそんな彼女の思いとは裏腹に、陽桜莉は”地の花”のフラグメントを暴走させてしまいます。


陽桜莉のことを思いながら、空を見上げる美弦。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第17話より


ノートに描かれた陽桜莉の苦しみを知り、ショックを受ける美弦。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第17話より

美弦は自分が苦しみを全て背負うことで、代わりに陽桜莉には笑って欲しい、と願っていました。そのために彼女が身を削って懸命に動いている姿が今回描かれています。そんな姉を見て、陽桜莉は姉の負担を少しでも共に背負おうとしていますが、陽桜莉に苦労をかけたくない美弦はそれをやんわりと拒絶してしまいます。
これはもちろん美弦にとっては陽桜莉への愛情ゆえの姿勢です。しかし、陽桜莉にとってそれは「母に続いて、姉も重荷の自分を捨てるのではないか」という恐怖と寂しさを呼び込んでしまうことでした。


2人の決定的なすれ違いが描かれるのがクリスマスプレゼントのシーンです。美弦が陽桜莉にプレゼントするのは月ノ宮の学校案内。繰り返しになりますが、”花火と桜の学校"は”天の花”に繋がっています。
一方で陽桜莉が美弦にプレゼントしたのは手袋です。つまりこちらは手で触れられる”地の花”に繋がっています。手袋というのは傷つく姉を見かねてのプレゼントでしょうか。そしてこの手袋は同時に、自分も共に苦労していきたい、ということでもあるのかもしれません。手袋といえば冒頭で『Hand In Glove』の話をしましたが、陽桜莉は姉とただ「仲良くつるんで」いたかったのではないでしょうか。


クリスマスの夜、プレゼントを交換する2人。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第17話より


美弦にとっての”エンジェル”が陽桜莉だったように、陽桜莉にとっての美弦もまた”エンジェル”です。陽桜莉もまた、美弦に自分を大切にして欲しい(don't take your life tonight)と感じているのです。今回はまさに平原姉妹のエピソードだったわけですから、サブタイトルの「エンジェル・エンジェル」が2人のことを指していることには納得感があります。
さて、それでは引用元のタイトル『Angel, Angel, Down We Go Together』まで考えてみるとどうでしょう。今回の過去のエピソードでは平原姉妹どちらもそれぞれの苦しみ、すなわち”地の側"にいました。しかし、陽桜莉にとっては美弦が離れていくように感じられていました。つまり、一緒に苦しみのある”地”に堕ちて欲しい(Down We Go Together)と願っているのは、間違えなく陽桜莉だと思います。今回は美弦の視点で大部分が語られたエピソードでしたが、実は本当の主役は陽桜莉だったのではないでしょうか。それは、この美弦の過去を陽桜莉が覗いている、という今回の構造にも一致している解釈ではないかと思います。


それにしても、今回のエピソードがリフレクターとしてのフラグメント回収や原種(怪物)との戦いによって足元の花たる陽桜莉の苦しみを見落としてしまっていた、となるとある意味ではアンチ・ブルリフっぽい回だったんじゃないかなと思います。今回は”地”に対比される”天の学校”も、幻剣から帝まで共通した舞台ですからね。幻剣・帝は「閉じた箱庭世界でのドラマが→世界の命運に直結する」というストーリーでしたが、澪は「世界を救うために→ひとりひとりが足元を見つめなくてはならない」という話だと思っています。世界のあり方と少女たちの想いの関連を描く両者は、当然全く異なる性質というわけではないものの、しかしブルリフシリーズにおいて澪は異質な作品だと感じます。


倒れた陽桜莉を残し、狼狽したまま原種との戦いに赴いた美弦。しかし彼女は世界を救うことはできなかった。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第17話より

第18話 セメタリー・ゲート(Cemetry Gates)

今回はほぼそのまま『Cemetry Gates』ですね。詩集では「墓地の入り口」というタイトルです。「サム・ガールズ」同様のよくありがちな和訳を採用……と思わせつつ、「セメタリー・ゲイツではなく「セメタリー・ゲート」という微妙な捻りがありますね。
スミスの3rdアルバムThe Queen Is Dead』に収録されています。

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モリッシーのユーモアたっぷりの歌詞が2分40秒という短い時間で軽やかに展開する、スミスの強みが大きく出た良質なポップ・ソングです。完全に余談ですがわたしも非常に好きな曲の一つで、はてなブログのIDに使っていたりします。


「この曲のファンです!」みたいな顔をしておいて大変恐縮なのですが、この歌詞の内容は結構難しく、イギリスの文化を肌で感じてきていない、ましては英語話者でもないわたしにとっては翻訳を一見しても何がなにやら、となりがちです。
というのもこの曲には言葉遊びや引用がふんだんに仕込まれており、意味を追っただけではわからない歌詞の仕掛けが色々存在しています。例えば、タイトルの「Cemetry」の正しいスペルは「Cemetery」ですから、ここには意図的なスペルミスがあります。
また、歌詞の「So we go inside and we gravely read the stones」は詩集では「ぼくらは中に入り厳かに墓碑銘を読んでいく」と訳されているわけですが、厳か(gravely)が墓(grave)をもじった言葉として採用されているということは、原文を見ないと理解できません。
他にも”きみ”が言う「"'Ere thrice the sun done salutation to the dawn" 」はシェイクスピアの『リチャード3世』からの引用であり、それを受けて”わたし”は「そんなことはとっくに聞いたことがあるよ(But I've read well, and I've heard them said / A hundred times (maybe less, maybe more) )」と内心思ってマウントを取っているわけですね。百回聞いた、と豪語しつつ(もしかしたら少なかったかもしれないし、多かったかもしれないけど)という予防線を張る自信のなさが良いですね。


この曲に関しては普段和訳を記して終わり、という『モリッシー詩集』には珍しく、簡単な解説が注釈としてですが載っています。海外独特の表現や遊びに満ちた曲のため、日本語に訳すにあたって訳者が頭を悩ませたことが伺える一文でもあります。せっかくですのでそちらを引用しつつ、この曲の読解の助けにしたいと思います。

この曲は盗作問題について歌われていて、モリッシーは他人のフレーズを剽窃しているという批判に対してユーモラスに答えている。
どこかの売春婦の1804年作とされるこの「done do does did」というフレーズだが、
そのまま日本語には移しにくく、例えば「six og one and half a dozen og the other」
とにたような用法ではないかと解釈してこのように訳してみた。


モリッシー詩集』(訳:中川 五郎)の「墓地の入り口」の注釈より*1


盗作問題に対して言葉遊びと引用の羅列の曲で答え、そうした問題提議自体が全くのナンセンスだろう、というスタンスを取っている楽曲、という感じでしょうか。何度か登場する以下の歌詞のフレーズは、直球で人からの影響を受けたことを語っているものですね。

A dreaded sunny day
So I meet you at the cemetry gates
Keats and Yeats are on your side
While Wilde is on mine
*2


(Cemetry Gates / The Smiths

この曲をアニメのサブタイトルに少しひねって引用したことも、こうした楽曲の背景があったから……というのは考え過ぎでしょうか。それはともかくとして、面白い一致だなと感じます。
盗作問題云々のことを一旦置いといたとしても、この曲の歌詞は本当に面白いなと感じます。明るいポップな曲調で、”きみ”と楽しく出かけているにもかかわらず、シチュエーションがおおよそどうしたって明るくはならない墓地、というギャップの鮮やかさ。晴れ渡った空(sunny day)と墓地(cemetery)のコントラストにもはっとさせられますが、そこに更に晴れ渡ったに対して恐ろしげ(dreaded)、という形容詞を付け追い打ちをかけて、”わたし”の感じている異質な世界観を上手く作り上げています。


いい加減アニメの話に移りますが、この恐ろしげさと同居する晴れた空、というシチュエーションは今回まさに登場しています。
夏真っ盛りで、陰ることのない晴れた青空。そんなぎらぎらと明るい太陽の元で、陽桜莉たちの心中は揺れ動きます。姉の”死”の原因がかつての自分にあったことを知り、今まで以上に抱え込んでしまう陽桜莉。バディである瑠夏もここに来て陽桜莉が心を開いてくれないことに悲しみ、焦りを感じています。そしてそんなリフレクターたちを横目に、世界を破滅させんとする紫乃たちルージュリフレクターは引き続き暗躍しています。
楽曲と同様に、今回のエピソードでは晴れた青空の画面と、そして一方で物語につきまとう不穏さ、この2つのコントラストで魅せるエピソードになっていると言えるでしょう。そしてこの不穏さは、ラストシーンの天に伸びる赤い光線と共に、はっきりと画面にも顕現します。これは、青のリフレクターたちの一旦の敗北シーンでもあります。


様々なことにショックを受け、走る陽桜莉はグラウンドにたどり着く。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第18話より


天に昇る陽桜莉と、コモンの扉を見つめる瑠夏たち。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第18話より

陽桜莉のフラグメントによって、コモンの扉たる”ゲート”が大きく開いてしまいます。苦しみを生み出す人々の想いを管理し、なくそうとするルージュ側にとって、コモンは悲願を達成するための場所です。「想いを失うことは死んでいるのと同じ」とは第8話「パニック」でも語られた概念です。つまり、このコモンへの扉こそが「セメタリー・ゲート」であるとやはり言えるでしょう。


バディである陽桜莉と心が通じず、更に友人になれた涼楓に改めて敵として対峙して、瑠夏は大きく動揺します。そんな彼女が憎しみの矛先を向けたのが美弦です。これはなかなか面白い構図で、というのもここでの美弦は死者に近いと感じるからです。作中の設定的にはもちろん死んではいないのですが、しかし陽桜莉はハッキリと「お姉ちゃんを死なせた」と表現しているのです。
今の美弦は仁菜曰く「想いを感じない」状態です。ここでも再び「想いを失うことは死んでいることと同じ」という概念を考えると、やはり美弦は”死者”として描かれています。もう墓の中にいるような曖昧な存在に心を動かされ、今生きている自分を見てくれない陽桜莉と涼楓に、友人として瑠夏は憤っているのです。死者に囚われている陽桜莉は、生きている瑠夏と共鳴ができないのです。


ルージュリフレクターの思惑も、そして美弦の状態も、どちらも”死”に強く結びついています。『Cemetery Gates』には”青空”と”墓地”の対比がありますが、空の青がそのままリフレクターの”青”であるならば、対立する墓地がルージュの”赤”でしょう。そしてその”死”へと伸びる”赤い光線”によって、「セメタリー・ゲート」は開かれてしまったのです。
前回も”天と地”という対比で読解を試みましたが、そのラインで行けば今回は”生の青”と”死の赤”であると思います。地-生-空-青と、天-死-墓-赤という感じです(前回主人公サイドを地、今回青空に例えたため、書いていて自分でこれでいいのか? となってきたので、整理と言い訳のためにこの一文を書いてみました。青空と墓地が登場したのはブルリフRではなく『Cemetry Gates』の話で、ブルリフRの墓地は天にありますから、一応一貫した読みになっている……と思っています)


18話で他に印象的なことといえば、やはり「水琴窟」でしょうか。「彼女(亜未琉)の心のがらんどう。そのがらんどうが広がれば広がるほど、あなた(涼楓)の想いがより響き、悲しい音を奏でる。まるで……水琴窟みたいに」と紫乃は語ります。亜未琉は想いをなくしつつあるわけですが、だからこそ何もないその空洞に涼楓の悲しみが響きます。さきほど美弦を死者と語りましたが、亜未琉も死者へと近づいてしまっています。
盗作をナンセンスだと言い切るような『Cemetry Gates』は、死者を想うことと影響を受けることを同時に軽やかに歌います。すなわち今回のエピソードには、『Cemetry Gates』の世界観に共通する、”生者と死者”の対比と、同時に両者の間に存在する切っても切れない結びつきがあるのです。


これはこのアニメを見て水琴窟を見に行ったツイートです。

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*1:該当の和訳は、原文の「done do does did」の箇所を、日本のことわざを含めた「とどのつまり五十歩百歩」と訳しており、それに対しての注釈です。

*2:”きみ”の側のキーツとイェーツとは、ジョン・キーツウィリアム・バトラー・イェイツで、どちらもイギリスの詩人です。一方”わたし”のワイルドは詩人・作家・劇作家のオスカー・ワイルドです。モリッシーオスカー・ワイルドを敬愛し、影響を受けていることを公言しています。