※この記事にはブルーアーカイブ最終編までのネタバレを含みます
ブルーアーカイブの最終編「あまねく奇跡の始発点」が終了しましたね。
皆さん、プレイされましたか?
2周年アニバーサリーイベントで「最終編」が発表された時に、何も知らないブルーアーカイブ非プレイヤーの方々としては、
「え? ブルーアーカイブ終わるの?」
と感じられたのではないかと思います。
一方でブルーアーカイブのことをよくわかっているブルーアーカイブプレイヤーとしては、
「え!?!?!? ブルーアーカイブ終わるの!?!?!?!?」
という感じでした。
結論から言うと、私としては「流石にブルーアーカイブまだ終わらないだろ」「FOX小隊の活躍が見たいんだよ俺は」「イチカのモモトークも読みたいんだよ俺は」という見解なのですが、それでは一体このシナリオがなぜ最終編などというセンセーショナルな名前がついていたのか、ということが気になってきます。今回の記事では、最終編って結局なんだったんだよ……ということについて、この最終編の構造を紐解きつつ、ぼんやりと考えていたことをここで書いていきたいと思います。
はじめに
「最終編」とは一体何だったのか?(1回目)
最終編がなんなのか、ということを考えるにあたって、一番シンプルな答としては「最後のエピソードだから」というものでしょう。なるほど確かにブルーアーカイブを始めた当初に一瞬登場して、その正体が長らく隠されていた黒い服に身を包んだシロコの存在、「シロコ*テラー」がいよいよ登場。”シロコ”に襲われたかのように見える先生に果たして何があったのか……ついに明らかになるこのシナリオには、はじまりの地点からいよいよたどり着いた最終章、という趣があります。
とはいえ、本当にここが完全な終わりと言われると、あまりにもまだまだ残った要素があり、終わりと言われても少々首を傾げるところもあります。念のため断っておきますが、物語の終わりという地点で、物語で示された全ての問題が解決しているべきだ、などとは必ずしも思いません。しかしそれにしたって、ブルーアーカイブの最終編地点ではまだまだ解決していないことが大量にあります。謎の多い百鬼夜行連合のクズノハという預言者に、百花繚乱という組織の話。最終編の混乱に巻き込まれつつもなお何かを企んでいるような、連邦生徒会のカヤと彼女の私兵であるFOX小隊。他にもノノミのネフティスグループって何やったんだとか、流石にリオもちゃんと帰って来てミレニアムやっていこうやとか、セイアちゃんだけ実装されてないじゃんとか、とにかくソーシャルゲームとしてブルーアーカイブが今後やるであろうことというのは、まだまだ山ほどあります。
1クールのアニメのようにその始まりと終わりの枠がきっちりと定められているならまだしも、ブルーアーカイブが今終わる理由というのは、はっきり言って全然ないわけです。完全にメタ的な話になってしまいますが、今やYosterの柱の一つでもあるブルーアーカイブというIPがそうそう終わることも考えられないでしょう。
ここにあった「終わり」について考えるならば、やはりプレナパテスというもう一人の先生にとっての終わりでしょうか。別の時間軸では、このゲームのプレイヤーたる「先生」であったプレナパテスは、大人のカードという権能を我々プレイヤーの代弁者たる先生に手渡し、「生徒たちをよろしくお願いします」と息を引き取りました。プレナパテスにとってのブルーアーカイブは、ここで終わりを迎えたことになります。とはいえプレナパテスの意志は受け継がれているわけで、個人的にはもう少し何かこの「最終編」という言葉について掘り下げられるのではないか、と考えています。
ということで、次からはこの最終編という物語を紐解いて行きましょう。
「対立」から読み解く最終編
”終わり”と”始まり”――表裏一体のふたつ
最終編のサブタイトルは『あまねく奇跡の始発点』という、それそのものがはじまりを感じさせるものでもあります。この少々矛盾している「終わり」と「始まり」の「共存」のように、「逆の要素が同時に重なり合って存在している状態」というのが、このシナリオでは頻出だったことはプレイした皆さまであればおわかりでしょう。当然そのうちの一つが「シロコ」と「シロコ*テラー」の存在なわけです。というわけで、まずはこの「表裏一体」のことについて振り返っていきましょう。
もともと「シロコ*テラー」という名称が登場する前、ファンの間では「クロコ」という通称で呼ばれていたように記憶しています。アビドス制服の雰囲気とは異なる、黒い服を纏った彼女の雰囲気を反映しての名称だと思いますが、この「白」と「黒」にて対比するというネーミングは、図らずも本質を突いていたように感じています。
最終編のロゴにも黒と白の背景でそれぞれ「あまねく」「奇跡の始発点」という文字が配置されています。
さながら古代中国の陰陽を彷彿とさせますが、そういえば最終編にも陰陽の言及がありました。余談ではありますが、こちらも引用しておきましょう。
さて、それでは最終編に登場する、この白と黒、そしてこのどちらかに別れて対立する存在を挙げていきましょう。なお、本記事では視認性の関係もあり、文字の色を変更する時はこの対応と重ねられている青と赤の色に統一します。
まずは白の「シロコ」と黒の「シロコ*テラー」です。シロコ*テラーは「色彩」なるものによってその性質を「反転」させられ死の神アヌビスとして恐怖(テラー)の側面が現れたシロコ……みたいな感じらしいです。別の時間軸の世界のシロコであった彼女は、アビドスの対策委員会のメンバー全員と死別し、絶望の中で「色彩」の力によってシロコ*テラーへと変貌しました。世界を滅ぼさんとする色彩の思惑のままに、彼女はキヴォトスを終焉へと導こうというわけです。ゲームのプロローグでも登場したように、シロコ*テラーの前にあるのは、銃弾によって撃ち抜かれたシッテムの箱と、地面に倒れている先生です。時空を飛び越えキヴォトスを訪れた彼女は、先生を含めた世界の全てを破壊しようとしているようです。
一方の、我々がよく知っているほうのシロコは、先生の味方なわけですから、彼女はキヴォトスを防衛する側です。キヴォトスを破壊しようとしている「シロコ*テラー」と、防衛する「シロコ」……ということでこの両者は真逆の立場なわけです。
この白(味方)と黒(敵)の対立を軸にして、様々な似た存在というのが最終編には登場します。
まずはシロコを拉致するという登場をした「プレナパテス」。「プレナパテス」はブルアカの主人公である「先生」が「色彩」なるものによって異形へと変化してしまった存在です。プレナパテスはシロコ*テラーと行動を共にし、 敵船の最深部で先生たちと激突します。言うまでもなくプレナパテスはキヴォトスを破壊する側で、プレイヤーの代弁者たる先生は防衛する側です。
更にこのプレナパテスにもシッテムの箱のサポートOSが味方しています。白い髪に黒い制服、赤のリボンを身につけた、我々の良く知った「アロナ」と対になるようなカラーリングの少女。彼女は「A.R.O.N.A」と名乗り、シロコ*テラーやプレナパテス同様に先生一行と対立することになります。戦いが終わった後は、アロナから「プラナ」という名前をもらい、アロナとこちらのシッテムの箱に同居することになります。
「先生(プレイヤー)」「シロコ」「アロナ」といえば、ブルーアーカイブはじまりの3人と言っても過言ではないでしょう。*1最終編のラスボスは、そんな3人の「反転」である「プレナパテス」「シロコ*テラー」「A.R.O.N.A」というわけです。
表裏一体の組み合わせはまだあります。初登場は最終編ではなく、その手前の「時計じかけの花のパヴァーヌ編」にて登場した存在ですが、「アリス(AL-1S)」と「ケイ(Key)」です。もともと「名もなき神々」の兵器として作られたAL-1Sは、パヴァーヌ編1章でアリスという名前を得て、ゲーム開発部の一員としてミレニアムの生徒になりました。そんな彼女を、キヴォトスに危機をもたらす「名もなき神々」の武器として起動する鍵がケイ(Key)なのです。
最終編において、色彩に乗っ取られた「名もなき神々」の「アトラ・ハシースの箱舟」の攻略戦の場面で、ケイはアリスをサポートし、力を使って消え去ろうとするアリスの代わりにその意識を捧げました。
また、これら最終編に登場する2つの船も表裏一体の関係と言えるでしょう。先程も軽く言及したようにパヴァーヌ編でその名前が登場した「アトラ・ハシースの箱舟」ですが、最終編では色彩によって乗っ取られ、シロコ*テラーやプレナパテスが搭乗する敵の本拠地となりました。上空に浮かぶこの「アトラ・ハシースの方舟」に対抗するために登場したのが、アビドスの地下に眠っていた「忘れられた神々」による建造物である「ウトナピシュティムの本船」です。
この2つの名前の元ネタとなった「アトラ・ハシース(アッカド語)」と「ウトナピシュティム(古バビロニア語)」はどちらも創世記の「ノアの方舟」の「ノア」を指しているそうです。すなわち、敵サイドの「アトラ・ハシースの箱舟」と味方サイドの「ウトナピシュティムの本船」はどちらも「ノアの方舟」という同一のモチーフを元ネタにしているわけですね。
ちなみに、ブルーアーカイブの舞台であるキヴォトスもギリシア語で「方舟」という意味を持ちます。*2
ここで、最終編で登場した2つの相反する表裏一体の関係を持つ存在を簡単にまとめておきましょう。
白 | 黒 |
---|---|
シロコ | シロコ*テラー |
「先生」 | プレナパテス(偽りの先生) |
アロナ | プラナ(A.R.O.N.A) |
アリス(AL-1S) | ケイ(Key) |
ウトナピシュティムの本船(忘れられた神々) | アトラ・ハシースの方舟(名もなき神々) |
最終編は、さながら白陣営と黒陣営の戦いといった雰囲気があります。続いてはこの両者の戦いが最終編でどのように繰り広げられたのか、そのあたりについて触れていきましょう。
(無論、最終編を触れた人はこの両者が単純な敵対関係だけでなく色々と絡み合っていることもご存知でしょうが、そのあたりも順を追って話していきます)
「白」と「黒」、「青」と「赤」の陣取りゲーム
「白」と「黒」という相反する両者の対立があるわけですが、これがシロコ*テラーら色彩側の侵略行為から始まりました。ここでキヴォトスははじめ全てを奪われ、その反図を取り返していく……というのが最終編の流れになっています。
最終編の深刻さのというものは、シナリオの選択画面の解説文で「日常に入った小さな亀裂 平穏な日々が崩れるのはあっという間で――」という表現がされていることからも感じ取ることができます。実際にこれはキヴォトス全土を巻き込んだ、今までの中でも最も重大と言えるレベルの危機です。最終編2章ではたっぷりと各学校おいて、例外なく抗戦する生徒たちの姿が描かれていました。2周年の節目での「全員集合」チックな盛り上げ方なのですが、今までに登場した生徒たちを取りこぼさず登場させたのは、最終編が今までシナリオのように(今後拡大するとしても、少なくともその状況の段階では)局地的な危機ではないという表現でもあるのでしょう。
ところで、私はブルーアーカイブのシリアスさが増す時というのは、逆らいようのない力でこの「日常」から遠ざかって、それがもう戻れない距離にまでなってしまうのではないか、というところに緊張感があるのだと思っています。
cemetrygates1919.hatenablog.com
これはエデン条約編3章を読んだ後の記事ですが、私はエデン条約編3章の危機というのは「アズサが人殺し(日常に回帰できないほどの罪のある存在)になってしまうのでは?」というところにありました。これはエデン条約編4章のミカにしろ、パヴァーヌ編2章のアリスにしろ、何度もブルーアーカイブのシナリオに緊張感を生み出してきた手法です。
この日常から危機へ向かって緊張を生み、そして危機から日常へと回帰するというのは、ブルアカに常に見られるシークエンスだと考えています。実際に、4thPVにも見られる「ifのBADスチル」→「先生のセリフ」→「幸福な日常」という繰り返される動きというのは、危機から日常への回帰に成功したことを表現していると考えられます。
最終編の話に戻りますが、改めて私は解説において「日々が崩れる」とまで表現しているのは、やはりかなり重大なことではないかと思っています。キヴォトス全土が戦火に巻き込まれている今、日常は回帰するものではなく、いよいよ積極的に取り戻さなければなさないものとなってしまいました。
事実、最終編はとにかく今までのシャーレやキヴォトスが脅かされます。「色彩」の前哨戦とはいえ、まず最終編はシャーレがカイザーコーポレーションによって奪われてしまうところから始まります。そしてシャーレをなんとか奪還したわけですが、今度は虚妄のサンクトゥムの危機によってキヴォトスの空は真っ赤に染まります。青春の象徴である青(ブルー)は、反対色の関係である戦火の赤に侵略されていきます。ここで、虚妄のサンクトゥムを打倒することで、キヴォトスの空は再び青へと戻ります。
すなわち、この戦いというのは、キヴォトスを青(日常)とするか、赤(危機)とするかという、キヴォトスの捉え方の戦いであると解釈できます。
ところで、キヴォトスといえば、先程も記したようにこの最終編ではキヴォトスの元ネタであろう「ノアの方舟」をモチーフにしたと思われるものが登場します。「忘れられた神々」が作り上げて先生一行が搭乗する「ウトナピシュティムの本船」と、「名もなき神々」によって作られ、色彩に利用されている「アトラ・ハシースの方舟」です。
この2つの”方舟”を巡る戦いというのは、最終編がキヴォトスを巡る争いであるということの補強になると考えています。実際に3章は「アトラ・ハシースの箱舟占領戦(A-H.A占領戦)」という「出張!百夜堂 海の家FC計画」以来の占領戦イベントが開催されました。まさにこれは”方舟”を自陣にしていくという行為です。アトラ・ハシースの箱舟がキヴォトスと重ねられるため、ここにはキヴォトスの奪還のニュアンスがあるのです。一方で敵の「色彩」側も逆に「プトナピシュテムの本船」をハッキングしています。占領戦の段階で2つの船は物理的に重なり合って*3いますから、これは1つの”方舟”を巡っての争いなわけです。
最終編においては出自が異なるこの2つの"舟"が重ねられていますが、もしかすると「忘れられた神々」と「名もなき神々」という実際は恐らく対立関係にある両陣営が字面上かなり紛らわしいというのも、意図的なことなのかもしれませんね。
先生は「主人公」なのか?
ところで、最終編の1章でキヴォトスがハチャメチャになった時に、ゴルゴンダから変質したフランシスが突然表れ、先生の前であれこれと発破をかけて(?)いきました。
フランシス「この物語は、一つのジャンルを掲げていたがゆえに、「先生」が主人公でいることができた。
物語であったから、あなたは無敵だった。――これはそういう物語だった。
しかし今となっては……――この物語は、覆された。
脈絡、構成、ジャンル、意図、解釈……すべてが破壊され――
その意味は絡み合い、混ざり、撹拌され――
統制できない程に褪せてしまった。
先生よ――これまでの物語は全て忘れるが良い。
これからお前の身に起こることは、最早そのような物語 ですらないのだから――
主人公も、悪役も、事件も、葛藤も無く――全てが分解され、縺れあい――
脈絡も、構成も、必然性も無くなってしまった……作為的に作られた世界。
そうして――果ては意味を失い、力が暴れるだけの――理解不能で不条理な世界へと。
嗚呼、そうだ――元より、この世界はそのように存在していた。我々は皆、それを忘れていただけ。
これが――もう物語でなくなったとするならば、お前はもう何者でもない。学園と青春の物語は、幕を下ろした。
覆され、解体されてしまったジャンルで、お前の価値はゆらぎ、地に落ち、無に等しいものとなる!
しかして、始めるのだ。物語ではない――」
(ブルーアーカイブ 最終編)
なにやらあれこれ脅しにかかってきたフランシスは、その後先生の強い返答の言葉を聞くと、満足そうに去っていきます。フランシスの発言の内容については正直理解半分という感じですが、ともかくとして拾えそうなところを拾っていくとブルーアーカイブが「学園青春モノ」から変質してしまった故に、学園という場所における聖域たる「先生」ももはや無事では済まない、という感じでしょうか。
黒服を始めとしたゲマトリアの面々は、度々登場しては迂遠で意味深な言葉を残していきますが、一貫しているのはどうにも彼らは傍観者めいた立ち位置であり、先生と積極的に対立をしようという雰囲気ではないところです。そのせいでファンダムでは先生ファンクラブみたいな扱いをされていることも多々あります。
フランシスの話すほどに最終編が混沌としていた印象は正直あまりないのですが、とはいえ先にも書いたようにキヴォトス全土を揺るがす大きな危機であるこのシナリオにおいて、ブルーアーカイブという作品のあり方が揺さぶられたのも事実でしょう。別の時間軸の出来事とはいえ、シロコ(テラー)は生徒でありながらも先生に危険をもたらし、当の先生もプレナパテスという異形に変貌しまっています。少なくとも、シロコ*テラーやプレナパテスのもともといた、「色彩」に歪められた側の世界においては完全に「学園青春モノ」は崩壊しています。
「理解不能で不条理な世界」からの来訪者である「色彩」の面々は、同様にこのキヴォトスをそのように覆そうとしている……とも受け取れます。
さて、ここで改めてその先生が主人公とフランシスから呼ばれていることについて考えていきましょう。そもそも主人公ってなんなのか。デジタル大辞泉ではこう書いてあります。
しゅじん‐こう【主人公】
読み方:しゅじんこう1 事件や小説・劇などの中心人物。ヒーローまたはヒロイン。「悲劇の―」
2 「主人1」の敬称。
「どこか山国の人にも近い感じのする―が…迎えてくれる」〈藤村・夜明け前〉
2の意味はここでは不適切でしょうから、1の「事件や小説・劇などの中心人物」というのがここでは適当でしょう。なるほど、つまりブルーアーカイブの物語における中心人物、ということをフランシスは言っているのだと考えられます。
実を言うと私は今まで先生が主人公という意識がそれほどありませんでした。というのも「対策委員会編」「時計じかけのパヴァーヌ編」「エデン条約編」「カルバノグの兎編」その他イベントストーリーを見ても、先生ってそれほど「中心人物」ではないと思っていたからです。なぜかというと、これらの物語の中心になっていたのって生徒だったという印象があるんですよね。先生は一歩引いたところで「じゃあ生徒は何がしたいのか」みたいな方へ導くタイプの存在だと思っていました。再び「学園と青春」という本作のジャンルを考えてみても、やはりブルアカの物語の主役というのは生徒だと思います。青春って子どものためのものでしょうから。
ですが、確かにここ最終編での中心人物が誰なのか? と考えた時に、そこにいるのは「先生」かもしれません。何故ならば最終編は最早学園単位の話ではなく、世界(キヴォトス)がどうなるかという規模の話になっているからです。
とすれば逆に先程のフランシスの言葉とは裏腹に「学園モノが覆されたからこそ、先生が主人公になった」とも言えるかもしれません。ともかく、このキヴォトスが本当に転覆してしまい、学園という舞台が崩壊すると「先生」も「生徒」もなくなってしまいます。それこそ彼が言うように「全てが分解され」てしまった時には、「”先生”の価値はゆらぎ、地に落ち、無に等しいものとなる!」のでしょう。すなわち、「学園青春モノ」としてのブルーアーカイブの終焉です。ブルーアーカイブを青春の物語に留めるために、ここにきて初めて「先生」は「主人公」として奮闘することになりました。
「最終編」とは一体何だったのか?(2回目)
ところで、このジャンルへの自覚的なシナリオというのは、一年前のアニバーサリーの節目のタイミングでもある、「エデン条約編」 3章にも登場しています。鬱屈とした暗雲を切り裂き、象徴的な「青」の空を取り戻したヒフミはこれこそが
エデン条約編の黒幕であったベアトリーチェは、他の傍観者としての立ち位置を貫くゲマトリアの面々とは違い、積極的に先生を排し自らの思うようなキヴォトスを作り上げようとする野心家でした。コンパクト最終編だったエデン条約編でも、キヴォトスの解釈バトルが行われていたと言えますし*4その「主人公」と呼べるような中心人物の座を巡っての争いであった、とも言えます。結局、先生ファンクラブのゲマトリアのスタンスから背いたベアトリーチェは、哀れゲマトリアが用意していた「色彩」への対策手段によって消滅してしまいました。
「ブルーアーカイブというゲームは『青春学園モノ』なのだ」と高らかに宣言してみせたエデン条約編の3章と同様のテーマが、最終編にはありました。最終編とは、実際にキヴォトスやブルーアーカイブというゲームが「終わる」ことの危機であると同時に、それによって今までのゲームのあり方(記憶の中のアーカイブ)すらも覆してしまう危機でした。先生とシロコの出会いという出来事からスタートした「青春学園モノ」は、この出会いがキヴォトスを滅亡へと導く忌むべきものであると確定した瞬間に、この「終焉」のためのお膳立てとなってしまいます。
ブルーアーカイブ最終編は「始まり(生)」と「終わり(死)」どちらがブルーアーカイブなのかという戦いを「白」と「黒」、「青」と「赤」、「先生やシロコ」と「プレナパテスやシロコ*テラー」の一進一退の攻防で描いてきました。
つまり、「ブルーアーカイブ」は「凄惨な物語」ではなく「学園と青春の物語」であるという総括が最終編であり、故にこの物語はブルーアーカイブの一番最後のシナリオ足るのです。
……と、ここで一旦結論を再び出して一区切りしましたが、この「白(青)と黒(赤)の争い」を軸にした論が最終編にあることをすっぱりと取りこぼしているというのはみなさんもおわかりでしょう。続いて再びこの「白」と「黒」の関係について、改めて振り返っていきます。
「共存」から読み解く最終編
「理解できないものを通じて、私たちは理解を得ることができるのか」
ここまでさんざん「白(青)」と「黒(赤)」対比を分離し、その対立について振り返ってきました。ですが、最終編の本質というのはそこから更に進み、この両者の和解にあります。
ブルーアーカイブに度々登場するものとして「七つの古則」というものがあります。エデン条約編ではそのうちの一つ「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか」というものが明かされ、この問いはエデン条約編のテーマと大きく絡んでくるものでした。同様にこの最終編でもこのうちの一つが明かされています。*5
「理解できないものを通じて、私たちは理解を得ることができるのか」この一件不可解な問いのへの解釈が、作中で語られています。
かつてリンは連邦生徒会長とのやりとりで、この不完全な問いを「理解できない
「理解できないもの」「理解を得ることができるもの」という両者にそれぞれ「他人」「己」というものを代入することで、この一件矛盾したような問いは成立しています。ここで用意されているルビも秀逸です。「他人」と「己」という相反する概念を扱いながら、それぞれに「もの」「たがい」とルビをふることで、相互理解が成立しているのです。「己(おのれ)」を理解するだけではやはり「他人」は「理解できないもの」ですが、互いに相手を通じて「己」を理解したならば、それは同時に「他人」を理解することにも繋がります。
まず他人を他人と認めて距離を置き、かつそれによって己の眼差しが他人を見据えることができるようになった時に、「理解できない他人を通じて、己の理解を得る」ことができ、相互理解が完成するのです。
ここでも再び「白(青)」と「黒(赤)」の対立について語ってきたように「己」と「他人」という相反する存在が対比されていますが、この言葉の中ではその両者が手を取ることができる、ということが語られているのです。ここで「己」というのをこちら側、「他人」を向こう側としたうえで、先程用意した表を再び振り返って見ましょう。
白(己) | 黒(他人) |
---|---|
シロコ | シロコ*テラー |
「先生」 | プレナパテス(偽りの先生) |
アロナ | プラナ(A.R.O.N.A) |
アリス(AL-1S) | ケイ(Key) |
ウトナピシュティムの本船(忘れられた神々) | アトラ・ハシースの方舟(名もなき神々) |
実際に最終編では、いままで対立していると散々語ってきた両者が手を取り合っていることがもうおわかりだと思います。
「何いってんのこいつ、白黒の対立は最終編の本質じゃないだろ、最後まで読んでないのか?」などと皆様に前の段階で思われるのを避けるためにここまで散々予防線を張ってきましたが、ようやくこのことについて言及することができました。
つまり、最終編で行われていたのは相反する存在を認めないことではなく、むしろそこと並び立つ話をしていたわけですね。「アトラ・ハシースの箱舟」攻略において、いかに相手を自身と同じ次元に存在させるか、という戦いをしていたのも、こうしたテーマとつながるシーンだったと思います。
「鏡像」との対話
先程は「己」と「他人」の相互理解、というテーマで最終編の展開を語ることを試みました。さらにここで「己」「他人」とされているものは同時に同一存在である、というのが最終編の肝でしょう。続いては、このあたりについて語っていきましょう。
最初、シナリオにおいてはシロコが拉致されたと同時に登場した「シロコ*テラー」は「シロコ」の反転した姿だと思われていました。実際にそうではあるのですが、反転したのは別の時間軸のシロコであり、こちらの我々の知っているシロコはそのままの姿でアトラ・ハシースの箱舟内に潜伏して金目の物を探していました。
我々の知るシロコが登場したことで、反転した同一存在であると思われてた「シロコ*テラー」は「他人」であることが判明しました。そこで「シロコ」たちはキヴォトスを脅かす「シロコ*テラー」を排除しようとします。
ですが物語は更に先へと展開していきます。先生を害する恐るべき存在になってしまったと思われていた「シロコ*テラー」は、実は彼女にとっての「先生」をやはり傷つけることができなかったのです。「『先生』に銃口を突きつけるシロコ」という、「シロコ*テラー」の変貌を象徴していたスチルは、彼女が涙ながらに銃を下ろすという続いてのスチルによって鮮やかに覆されました。こちらの世界のアビドスの面々と対峙した「シロコ*テラー」は堰を切ったようにその場で泣き崩れます。「シロコ*テラー」とされていた彼女もやはり、アビドスの面々を愛し、先生を慕っていた「シロコ」だったのです。
「シロコ」にとっての「シロコ*テラー」という存在は、「他人」であると同時に「己」でもあります。最終編で「己」と「他人」というのは、多次元解釈による「アトラ・ハシースの箱舟」内部のように、混ざり合って存在しています。
すなわち、「シロコ」と「シロコ*テラー」が向かい合うとき、それはさながら鏡合わせのような関係でもあります。ここで他者との対話は、同時に「鏡像」との対話というわけです。この鏡に向かうような構図は、最終編で度々登場しています。
「”青”のマフラー」というシロコにとっての青春の象徴を失った「シロコ*テラー」は「シロコ」の巻いているマフラーを見て、自らが大切な思い出を落としていたことを識り、「自己理解」を実現します。一方の「シロコ」も「シロコ*テラー」が確かにもう一人の自分であることを認め、もう一つの自らにとっての青春の象徴である「目出し帽」を譲ります。こうして、「2人のシロコ」の間で「理解できない
同様の展開はまだあります。「アロナ」と「A.R.O.N.A」という立場の異なる存在は、「先生」を救うために互いの手を取りました。ここでも「2人のシロコ」のときと同様の向かい合わせの演出が登場しています。
戦いの後「A.R.O.N.A」は去ろうとしますが、「アロナ」はそんな彼女を引き止め、「A.R.O.N.A」に「プラナ」という新しい名前を与えます。この名付けによって、「アロナ」と「プラナ」は別の存在、すなわち「他人」になりました。そして「2人のOS」は同時にシッテムの箱に共存することになりました。こうして、ここでも「理解できない
最後に、忘れてはならないのが「アリス(AL-1S)」と「ケイ(Key)」ですね。最終編の前の物語であるパヴァーヌ編では「アリス」が「名もなき神々の兵器(AL-1S)」ではなく「ミレニアムの生徒(アリス)」であることを望んだため、「名もなき神々の兵器」としての役割の側面を担っていた「
終わって振り返って見ると、この2人の間の物語によって「名前を付けることで他者となる」というシークエンスや「鏡合わせの自己との対話」という構図が最終決戦の直前に既にしっかりと提示されていることに驚きます。「アリス」と「ケイ」による光の剣の一撃は「アトラ・ハシースの箱舟」突入直前の出来事であり、まだ「シロコ*テラー」と「シロコ」が別人(別の時間軸の「他人」)ということすら判明していません。
シナリオ的な効果を考えて見ると、ここで「アリス」と「ケイ」は別離してしまっているため、後の「シロコ」と「シロコ*テラー」や「アロナ」と「プラナ」の物語は、ここで匂わされた展開を打破して驚きを生んでいる、と取れるかもしれませんね。
このように、最終編では繰り返しこの「鏡像との対話」めいた構図が登場し、そしてここでは「己」と「他人」が手を取る、ということが描かれていたことがわかります。「あまねく奇跡の始発点」の表示されるラストシーンで赤と青が混ざりあったような色合いで表現されているもの、象徴的な演出と言えるでしょう。*6
「プレナパテス」を通じての理解
最後に「プレナパテス」という残った存在について語っていきましょう。今までの「シロコ*テラー」「プラナ」「ケイ」というキャラクターたちに対応する存在たちとは少々異なって、この「プレナパテス」というのはプレイヤーの代弁者たる「先生」の別の時間軸の姿です。つまり「プレナパテス」は「プレイヤー」にとっての「己」であり「他人」ということになります。……って、なんで俺くんが!?*7
「プレナパテス」は別の時間軸で失敗した側の「先生」です。その経緯については詳しくは語られていませんが、連邦生徒会長の口ぶりからすると「先生」ではなく連邦生徒会長の選択を優先した結果、別の時間軸のキヴォトスを滅亡(少なくとも、それに近い状態)にしてしまったのかもしれません。ともかく、最終編でプロローグの連邦生徒会長の「選択」という言葉が再び登場しているように、「プレナパテス」の側の時間軸は今と異なる選択により分岐した、言わばBADルートの可能性を実現してしまった時間軸であると言えます。
ところで、ブルーアーカイブがノベルゲームに影響を受けていることはファンの間でも度々指摘されていることです。私も多少はノベルゲームを遊んできたとはいえ、そこについて多くの知識があるわけではないのでここで詳しく論ずることはしませんが、とはいえアートディレクターのHwansang氏とシナリオディレクターのisakusan氏が2人とも「TYPE-MOON(奈須きのこ)」からの影響を公言している*8ことからも、ブルアカがノベルゲーム的な物語の構造を意識しているというのは確かなことだと思います。
この最終編という今までの4つのシナリオを踏まえての展開というのはノベルゲーム的に言えば、各個別ルートを攻略して最後に開放される最終シナリオめいています。最終編というネーミングもそうしたところを意識している、というのはこの名前の理由の一つかもしれませんね。
再び「プレナパテス」の話に戻りますが、BADルートを受け持ってくれた「もう一人の先生」の存在によって、私達プレイヤーは擬似的にこの「分岐」を体験することが可能になりました。形式上一本道にならざるを得ないアプリゲームのシナリオで、ノベルゲーム的な分岐システムをシナリオ上で表現しよう、という試みが最終編にはあったのではないかと感じています。
ブルーアーカイブ最終編というものがゲーム体験としての話をしているのであれば、BADルートの選択というのは切り捨てるべき失敗ではなく、それによってTrueルートの感動が増す、ということの表現と解釈できるかもしれません。
さて、今回「シロコ」や「アリス」らは自己との対話によって、自らのあり方を理解していきました。それでは、私達「プレイヤー」はどうなのでしょうか。ここでの「プレナパテス」と「先生」は同一の存在として描かれていました。「プレナパテス」の顛末によって、「先生」の私はどれだけ傷つこうとも相変わらず生徒のために身を削ろうとする、ということが描かれました。別の時間軸の「先生」によって、今の時間軸の「先生」の姿がさらに掘り下げられた形になります。
「プレナパテス」亡き後、ゲームシステムとして私達プレイヤーは「プレナパテスの大人のカード」を入手しました。これも粋な演出だなと思います。ブルーアーカイブが、私達プレイヤーに「大人」だとか「先生」としての姿勢を強要しているとは、私はあまり思っていません。「先生」は私達の代理でありつつも、やはり「わたし」と「先生」というのは「他人」でもあります。ただ、様々なゲームシステムの利用によってそういう「先生」としての戦いを追体験させようとする試みは、実に面白いなと感じます。
「プレナパテス」や「先生」という、現実の私達とは異なる「他者」を通じて、私達は現実の「己」の何を理解するのか。このあたりについては、プレイヤー各々が感じたことが正解であり、答えが用意されているものではないのでしょう。
「最終編」とは一体何だったのか?(3回目)
改めて最終編をこねくり回して、再びこの問いに舞い戻ってきました。前回は「異なる両者の対立」ということから、この最終編の問いへの答えを「ブルーアーカイブという作品が『青春学園モノ』であるという総括」という形で出そうとしました(2回目を参照)
しかしその後最終編が「異なる両者の和解」を描いてきたことを説明した今、この答えは不十分でしょう。ブルーアーカイブという作品の中で、やはり「凄惨な物語」と「青春学園モノ」というのは「共存」しているのです。最終編でわりとコミカルなシーンが多かった印象なのも、そうした表現の一つだったのかもしれないですね。
ということであれば、ifBADルートを回避してきたブルーアーカイブの次の答えとして、たとえBADルートという結果に一度なったとしても、それでもまた再スタートができる、といったことが提示されたのが最終編だったのではないでしょうか。
「終わり」と「始まり」は最終編の中で混ぜられ一つになった。別の時間軸の凄惨な事件を経てなお全ては日常へと回帰し、これからもブルーアーカイブという輝かしい日々は続いていく。故に、最終編は”最終シナリオ”たり得ない。
言ってしまえば「最終編って言ってるけど、ブルーアーカイブまだまだ終わらないと思うよ!」なんていうなんか驚きも何もない感じの「そりゃそうだろ」みたいな結論になってしまいましたが、奇抜な答えを出すことが目的ではないのでここでは良しとしましょう。ブルーアーカイブの良さというのは、こういうシンプルなハッピーエンドをいかに魅力的に見せるか、というところにあると思っています。
これからのブルーアーカイブが一体どんな物語を見せてくれるのか、それが事件であれ日常であれ、本当に楽しみです。
おわりに
ゲームをするのはブヒるため、萌えは人生を楽しむため、ブルーアーカイブはすべてに答えてくれる。
――萌ヘレトの言葉 第10章
今回はシナリオ派記事なのであんまり萌えとかそういう話をするつもりはなかったのですが……とはいえ、ブルーアーカイブが「相対する両者の和解」を描いている以上、その本質を語ろうとする時にシナリオだけの話をしていては片手落ちというわけです。
かつて私はエデン条約編をプレイした後に「ブルーアーカイブってエッチなだけのゲームじゃなかったんだ!」と驚き、ブルーアーカイブってエッチなだけじゃないんだぞということを言うための記事を書きました。
今、ブルーアーカイブが当然エッチなゲームではないことが知れ渡っている今、敢えてこういう話をすることには逆に意義が生まれていると思っていて、私は萌えモク*9としてのブルーアーカイブ記事を度々書いています。汝、ブルーアーカイブで存分にブヒりたまえ。
ということで……今回話題に上げるのは、この生徒ォ~~~~~~~!!!!
トキ!!!!!!!!!
ンオ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
萌…………
いや………
かわいい
なんつーか……便宜上萌えとかブヒとか言ったんですけど、違うんですよね。トキってこう、シンプルにかわいいなっていうか……。トキってクールなんですけど、ちょっと寂しがりやで、ピースとかしちゃう茶目っ気があるって膨らませかたマジで凄いと思う。小動物感出してくると思わなかったっていうか……。「萌えの嚮導者」だよこんなん。結局ナギちゃんと合わせて400連で2天井叩くことになってちょっと気持ち悪くなったりもしたんですけど……でもその甲斐はあったかなって……。
オーソドックスなロングスカートのメイド服→戦闘用のミニスカートのメイド服→パワードスーツっていろいろな形態があるから、クラシカルな萌え好きも、露出があると嬉しいエロ好きも、メカ好きな燃え好きもみんな嬉しいのがいいですよね。
ということで、みなさんもトキやいろいろな生徒のかわいさを楽しんでいきましょう。粛々と。
いや、これは流石に萌え!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
おわり(最終編)
*1:人によってはユウカが入るという説もあるかもしれません
*2:こういうことを言っていると「生塩ノアって一体何者???」という気持ちになりますね。ノアの方舟(Noah's Ark)と生塩ノア(Ushio_Noa)と若干違うっぽいので、たまたま日本語にした時に一致しただけなのでしょうか……
*3:ウトナピシュティムの本船がアトラ・ハシースの箱舟の外壁をぶち抜いて突入しているので
*4:シャーレの教えとアリウスの対立もそうでしょう
*5:先程も書いたように、エデン条約編は1年目の総括めいたシナリオでしたから、この「七つの古則」というのはそのぐらいの周期で登場してくるのかもしれません。
*6:ところで、「他者を通じての自己理解」であるとか、更にそれを「鏡像」に絡めるのは、ラカン・ジャックの論との関連性を感じさせます。最終編では彼の提唱した「象徴界、現実界、想像界」というワードも出てきますので、いくらかラカンを意識しているのではないか、と思われます。ただ、私もこの記事の足がかりにでもならないかと邪な気持ちで図書館を訪れ、ラカンの入門書を眺めてみたのですが、難解で何を言っているのか全然わからない(少なくとも、ブルアカの話に絡めるにあたって、皆さまにその論を説明することが可能なまで理解することができない)ため、ここではブルアカシナリオとラカンの論を絡めて語ることは避け、「ラカンを意識しているのではないか」という言及に留めておきます。
*7:本当の本当に終わり(最終編)
*8:ブルーアーカイブ オフィシャルアートワークス STAFF INTERVIEW 参照
*9:シナリオを読み解くのではなく、萌えを目的としていること