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映画『ファンファーレ』感想 ~光と闇のコントラストの中で~

ただただ、戦慄させられた。

funfaremovie.com


映画『ファンファーレ』を観た。 アイドルのセカンドキャリアの話。かつてアイドルとして輝いていた、万理花の2人。彼女たちは、社会の中で揉まれながらも懸命に生きているわけだが……。

大石万理花と須藤玲は、アイドルグループ・ファンファーレのリーダーである西尾由奈の卒業コンサートのために呼び出されていた。 二人と由奈とはファンファーレの結成メンバー。由奈の希望により卒業曲は、万理花に振り付けを、玲に衣装のデザインを頼むことに。疎遠気味になっていた3人は、由奈の卒業を機にもう一度交流を持つようになる。
才能の限界を感じてアイドルをやめ、振付師を目指すも鳴かず飛ばずな万理花。 アイドル時代は圧倒的なカリスマ性で人気を牽引していたものの、服飾の道に進みたいとアイドルをやめ衣装のデザイン会社に入った玲。それぞれ社会の厳しさに打ちのめされる日々。 アイドルをやめて30歳手前、成功しているとは言えないセカンドキャリアでそれぞれの悩みや葛藤がある中、由奈の門出にお互い奮闘していくが…

(公式サイトより引用)


悪辣でもなく、過渡に悲劇的でもなく。とはいえ終始どこか張り詰めたような緊張感が漂うのは、セカンドキャリアを送る元アイドルたちの閉塞感があり、そして更に彼女らと同期の残った初期メンバー、由奈という1人のアイドルもまた終わりに向かう物語であるからであろうか。ある意味で言うならば、このお話は死に向かうと言ってしまってもいい。
そんなフィルムの中でほっとした暖かさを感じるのは、決まってかつての3人でいたアイドルの時代を思わせるシーンだったように思う。アイドル時代のことは、直接的には語られず、そこには余白がある。それでも、その時代が――たとえ儚く終わってしまったとしても――燦然と輝くものであったことを思わせる。映画で描かれる今となっては、それが遠く離れた思い出だとしても、それでもなお。それは、美しい生の日々だったとも言える。

本作の映像にて印象的なのは、やはり光と闇のコントラストだろうか。ステージを思わせるこの要素は、まさしくアイドルという題材ともマッチしているポイントでもある。夜の街で誘導棒を振りながら踊る万理花の姿。オフィスの自然光を取り入れながら踊る玲の姿。本作でも特に印象的なダンスシーンは、もはやアイドルでないはずの2人のそれだ。ステージとは違って強い光が当たらない薄暗さの中でなお、それはなによりも輝いても見えた。もしかすると、ただそこにあるものを、美しくさせてしまうものがアイドルなのだろうか。
劇伴のないシーンばかり、更には遠目の長回しカットが多いという装飾の少ない作りは、本作のナチュラルな質感を生むことに一役買っている。しかしその上で、本作の描く美しさは、どこか現実離れしていて、幻想的ですらある。私はアニメが大好きなオタクなのだけれど、ただそこにあるだけの現実の風景をここまで美しく見せるのは実写ならではの意義だとだと思ったし、それを達成できているのが素晴らしいと思った。

わからないが、歌や踊りだとか、人柄だとか、見た目だとか、言葉を選ばないならば処女性も含めてしまってもよいか、そういうものは所詮表層的な話なのであって、それを超越した"何か"を、アイドルの持つ美として捉えている人のフィルムなのではないかと、そう私は思った。

『ファンファーレ』予告編より

アイドルを題材にしながらも、しかし物語がそのセカンドキャリアについてというのが色濃いのもあるだろうか、印象としてはとにかく泥臭く生きている人たちの物語であった。
アイドルというのはある意味ではパッケージングされたものである。それをウソという言葉で語る気はないが、人そのものかといえばそれも違うだろう。いや、違うと受け止められる、というほうが正確だろうか。ともあれ、アイドルという肩書がなくなってしまったとき、そこにいるのはただのひとりの人なのだ。かつてアイドルのときははおそらく愛嬌として受け止められていたその人となりも、そうでなければ肯定的には受け止めてもらえない、というシビアさが垣間見えるシーンもあった。

映画の中で、見えるもの / 見えないもの、ということを描いているシーンがいくつかある。背景を用意しライトを当て、薄暗い職場で楽しげなインスタライブを演出する万理花。憧れの服飾業界に入るも、美しいだけの世界ではなく、延々と服にスチームを当てている玲。物事というのは、見える側面と見えない側面が組み合わさって、立体的にそれを形作っている。
そういう意味では、パッケージングされたアイドルという商品は、観客へと見せたい面だけを見せているのが、そのあり方ということなのだろう。引退後にグループに入ってきた後輩メンバーに対しては、万理花や玲が格好悪いところをけして見せないその姿に、彼女たちのかつてアイドルであった矜持のようなものも感じた。

現実を生きる人の物語としてのディテールを増し、本作の「人を描く映画」というニュアンスを強めるのが万理花と玲の役割であったように感じた。アイドルを辞め、ステージから降りた2人は今やただの一般人だ。光り輝くステージにまだいる由奈と、そうではなく社会の中で苦労する2人の対比はまさに光と闇と言ってもいいだろう。
しかし、作品としては終始"スポットライトが当たっている"のは、アイドルを先に辞めた2人のほうだ。2人の人生は赤裸々なほどに光が当たる。2人が何に苦労して、どんなことを思っているのか。2人がどんなアイドルであったのかすら、その姿からそれなりに見えてくるものがある。
では、ステージで光を浴びる側であるはずの由奈は?

映画的に考えればストーリーを牽引しているのは万理花と玲のほうであり、むしろ彼女たちは表側であり、光の当たるほうであるとも言える。事実、この元アイドルの2人こそがW主人公と扱われていることも多い。実際そうなのだろうと思う。

一方で、由奈には光が当たらない。
それは彼女がこの人間を描く映画の中で、だれよりもアイドルということなのかもしれない。

作品に登場する人々は、玲の元レースクイーンの上司も、万理花の留学生にご執心の雇い主も、お話としては嫌な役どころだけども、それでもふっと綻ぶような、人間らしい茶目っ気があった。であるというのに、重要人物であるはずの由奈はどこまでもミステリアスである。そして、その描かれなさこそが彼女自身の中に、とてつもないコントラストを産んでおり、映画を見た私の脳に焼き付いて離れなくなってしまった。この映画で最もアイドルであった由奈は、この映画でどこまでも人としては暗闇の中にあることが多い。

『ファンファーレ』予告編より

ラストシーン「この曲が終わるとアイドルが終わる」と語っていた彼女の横顔から、いよいよ発せられようとした何かの言葉は、何も描かれずに無常にもスタッフロールへと移り変わる。その徹底した語られなさは、私にとってあまりにも忘れがたい何かを焼き付けた。それは、映画のなかで最も鮮烈に印象を残す瞬間であった。

「3人で武道館に」「アイドルは人生」ついぞはっきりと語られなかった彼女の断片的な人間としての姿が、私を恐ろしいまでに捉えて離さない。元メンバーにアイドルとしての自らの死に添える供花を頼んだ彼女の心境は、果たしていかなるものであったのか。

由奈がアイドルを辞める謎というのは映画でも早々と提示されていることなのだが、ここについても最後まではっきりと語られることがなく、彼女の情報は明らかに意図的に抑えられているように思える。改めての話にもなるが、本作がスポットライトを当てようとしているのはアイドルのセカンドキャリアなのである。今まさにアイドルを辞め、第二の人生を踏み出そうとしている彼女は、しかしそれでもラストシーンのあの瞬間までアイドルであるから、その人としての姿が見せられることはないのだ。

初めて初期メンバーの3人が顔合わせをしたという日、「3人で武道館とかさいたまスーパーアリーナ満席にして、コンサートしましょう!」と由奈が夢を語るシーンがある。これは予告編のラストを飾るセリフとしても採用されていると、映画を見た後に知った。このシーンは、映画で唯一映画内のシーンを回想するように挿入されるため、観客的にも印象に残りやすいというか、このシーンは何かが違うのでは、と思わせるような異質なシーンだった。おそらくだが、映画を通して「フィルムの時間が巻き戻る」のはここだけなのではなかっただろうか。そしてその内容そのものも、アイドルとして歩みをまさにスタートした自分たちのことを振り返るという会話のシーンだった。無情なほどに、未来へと粛々と流れる時の流れのなかで、それに抗うように挿入された過去へのまなざしであった。おそらく、こういうところに、由奈の無表情の横顔の下に隠された、人間としての想いがあるのだと思った。

アイドルとしての死――”卒業”を受け入れつつある万理花と玲が、もがきながらも懸命に生きる姿に心を打たれた。一方、今まさに死のうとせんとしている、先の見えない由奈の第二の生に、祈るような気持ちがある。
皆、懸命に生きているのだな。
言葉にしようとしても、あまりにも月並みで、陳腐になってしまう。本作を見て感じたことは、もっと何か言葉にならないような、人の力強さと、そして、人の美しさだった。


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自分語りになってしまうが、自分も今後の生き方について、先の見えなさに不安になったことがある。
何もかも立ち行かなくなって、なんとか別の方向でやっていけないかと、とある専門学校に通っていたことがあった。逃げるように入ったそこで、学ぶことも多かったのだが、しかし生き方としては逃避だったからか、新たな道標を得ることもなく。結局卒業のあともその時に働いていた店で数年間フリーターを続けていた。そんな折にコロナが流行し始めて、そこは飲食店だったのだけれど、お客が激減して、ああもうここでぼんやり生きていてはだめなんだと思って、そこを辞めて半年後に就職をした。「もうすっかり社会人じゃないですか」会社員を社会人と呼ぶのはしょうもない習慣だと思っているけれど、この映画でそんな言葉が出てきた時に、なんとなく自分の生きてきた道を振り返ったような気がした。

アイドルのセカンドキャリアというのも、難しい話なのだろう。アップリンク吉祥寺で見た時、上映後にゲストトークがあった。その日はアイドルのプロデュースなんかをしている業界の方が、実際アイドルの事務所をやっていることについて話されていた。実際、そこをどうするかというのは、業界でも取り組んでいかなければならないことなのだそうだ。
アイドル文化に対して、そんなものは辞めろだとか、そういう問題意識があるわけではない。「キャリアにもならない仕事で、若さを切り売りするのはよせ」なんて、そんな風な言葉を聞くことだってあるが、そんなものは文化へのリスペクトも、現実にある痛みもまるでなく、安全圏からの言葉にすぎないだろう。とはいえ、私には何ができるのだろうか、そこについては私自身、何もわからないままだ。”今を生きる”ということについて、考えさせられた夜だった。