日陰の小道

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『さよならの朝に約束の花をかざろう』(2018:日)感想 出会いと別れ、喜びと哀しみ、2つの糸が織りなす人々の愛情の持つ力

true tearsあの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。などの脚本を手がけた岡田麿里初監督作品ということで放映前からそれなりに話題になっていた感じのする本作。上映後もなかなかの注目具合で「有名脚本家の初監督作」という話題性というゾーンを超えていった感触がある。そんな映画。

sayoasa.jp



あらすじ

数百年の寿命を持ち、自らの記憶をヒビオルと呼ばれる布に織りこみながら静かに暮らすイオルフという種族。そのイオルフの少女マキアは、両親がいない孤独と寂しさを抱えつつも里で平穏で静かな日々を送っていた。しかしそんな彼女たちが暮らす里に、古の獣レナトを率いた大国メザーテの軍が突如として襲来する。混乱の中、暴走するレナトにより里から連れ去られるマキア。そんな彼女は里の外で母親を亡くした赤ん坊に出会う。孤独を抱えたマキアは同じく一人ぼっちの赤ん坊を見捨てることができずに、エリアルという名前をつけ母親として生きていくことを決意するのだった。

感想

王道ファンタジーの感動巨作! みたいな雰囲気を勝手に感じてたので岡田さん特有(と勝手に思っている)の毒の振りまき方は控えめなのかな~などと思っていたら寧ろ僕のイメージする純度100%の岡田麿里成分を投げられた気分である。
毒というのがなにかというと、岡田さん非常に拗らせて面倒なことになった人間の感情を描くのが上手いなあという意識があって。それは冒頭に上げた二作にも共通してたりもするのだが、今作でも孤独を抱え劣等感や依存を孕んだマキアの感情の動きだったり、そんなマキアとの付き合い方を成長の中で変化させていってしまうエリアルだったり。他にも立場で揺れ動くメザーテの軍人のイゾルだったり、新たな生き方にけして順応できないイオルフの青年クリムあたりのサブキャラクターも非常に澱んだ感情を有していて見ごたえがあり、そんな人々が織りなす繊細な人間ドラマが楽しめる。

母親として奮闘するも、当然経験も何もない子育てに振り回されながらも周囲の人々の助けもあり「母親」の姿になっていくマキアと、そんな彼女を慕うエリアル。両者の関係は順風満帆とまではいかないまでも良好なものだったが、しかしエリアルが成長し思春期頃になったあたりから状況は変わってくる。
思春期男子にとって母親への反発は一般的なものであろうが、本当の親子ではなく、そして何より種族の生きる時間が違うこの二人にとっては、よくあるそれとはやや異なる構図であろう。青年にさしかかるエリアルの一方でマキアは変わらず少女のまま、新天地に越してきた二人の姿を見て周囲からは「駆け落ちかと思った」などと思われる始末だ。更にエリアルは幼年期にマキアを異性として好ましく思っていたというような描写もあり……このあたりのエリアル君の複雑な心境は察するに余りある。
互いを想いつつも、結局離れて暮らしていくことを決める二人。エリアルを笑顔で見送るマキアだったが、彼が立ち去った後で涙を止めることがができない。かつて「母親は強いから子供に涙を見せてはならない」と教わったように、別れの時まで懸命に「母親」というものを演じようとしたのだった。
この後マキアは、かつての同胞であるイオルフの青年クリスに連れ去られて、茶色に染め人間社会に馴染んでいった外見を、再びイオルフの里での金髪の姿へと戻している。勃発した連合国とメザーテの戦争、その戦火の中傷ついたエリアルと再びマキアは出会う。再会でもう一度関係を再確認する二人。どれほどその二人の姿が普通の親子関係の形とは違っても、エリアルにとってマキアは「自分に愛情を注ぎ愛というものを教えてくれた母親」であり、そしてマキアはエリアルに「母親と呼んでもらうことで母親になる」のだ。どんなに「人間とは異なるイオルフの民」という立場に押し込められたとしても、最終的にマキアという人間を形作るのはエリアルという人間の意志であり、そうした人間たちのピュアな意識が作り出す世界のあり方を描いてゆくのだ。

ところで、そんな主人公であるマキアと対比されるキャラクターが同じくイオルフの少女のレイリアである。里にいた頃、彼女は「どこへでもいける」自由な快活さと意志の強さがあり、里という空間に息苦しさを感じているかのようなマキアの憧れと嫉妬の対象の存在でもあった。しかしメザーテの襲撃で攫われてしまった彼女は、太古の神秘の血を持つものとしてメザーテ王子と婚約をさせられ、子供を身ごもってしまう。里にも帰れない、しかし王族という立場は名ばかりで部屋に幽閉され、精神を病んでゆく彼女の日々。たとえ狭い世界の中であったとしても本来自由であったはずなのに、求められる役割に押し込められ「どこへも行けなくなって」しまったレイリアは、役割を求めそこに自分の居場所を見出したマキアの姿とは非常に対照的であった。
前述のキャラクターの描き方といい、この物語は美しいビジュアルとは裏腹な人間の澱んだ部分などの汚い部分をクローズアップして、物事を二面的に捉えるという意識があったように思う。レイリアという存在は、主人公マキアの救いとなった「周囲からの役割」というものをポジティブに描いていくにあたって、その重圧という恐ろしさも語るためのキャラクターだったのではないだろうか。
そうした正反対の時間を送ったマキアとレイリアの二人がレナトで王城から飛び去る時、レイリアは娘に向かって「自分のことは忘れて欲しい、私も忘れる」と叫ぶものの、マキアは「忘れることができないよ」と話す。どんなものでもかけがえのない「私のヒビオル」であって、それが自分を形作ってゆくのだ。

本編のラスト、老いエリアルを若い姿のまま看取るマキアは異なる寿命を持つゆえの"別れの種族"と呼ばれるイオルフの宿命と対面することになるものの、映像はどこまでも穏やかで晴れやか。「良き別れ」を噛みしめるこのクライマックスシーンによって、このアニメは最終的に人と人との関わりの悲哀と喜び両方を包んで、そうした営みを肯定してゆくのだった。

岡田麿里初監督作品、という本作がどのようなものになるか全く読めなかったが、このようにテーマとして非常に面白い題材に取り組み、自身のカラーも上手く活かした上でやりたいことを見事にやりきった印象がある快作。ただ正直なことを言うと「いかにも王道ファンタジーな中世で長寿の民・ドラゴン的存在というのは面白みに欠ける舞台設定なのでは」というのは少しあったり。世界設定やそんな世界の情勢の動きというような設定厨っぽい楽しみ方はあまりできない作品だったが、しかしマキアとエリアルという二人の物語にあくまで焦点を当てた作品だったので、そういう部分を切り捨てたのはアリだとは思う。「ヒビオル」という記憶や感情のメタファーというか直喩のような存在を作ったのも力技だなあと思いつつも、ヒビオルを踏みつけてしまうエリアルとそれにショックを受けるマキア、といった風に演出に使いやすい存在として上手く機能していた。
そんな風に作劇手法にはちょっと好みとズレがありつつも、「ねえ妾って誰……?私、でしょ?」と他者の介在によって自分を見つける(別作品です、伝われ)みたいな展開が大好きな身としてはグッと来たシーンも多く。良きパワーを持ったアニメ作品だったと思う。

映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』オリジナルサウンドトラック

映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』オリジナルサウンドトラック