日陰の小道

私のロジックは私みたいな話をしたりします

人間がへたくそな人たちは『またぞろ。』をせっかくなので読みましょう

早速ですが、皆さんは"アレ"、やったことがありますか?


アレというのは……そうです、「留年」です。もっと言えば留年じゃなくてもかまいません、休学でも退学でも浪人でも休職でも退職でもニート期間でもなんでもいいです。ここで重要なのはそれによって――人生において「足踏み」をしたことがあるかどうか、という話です。
わたしは……まあ、こんな話をするぐらいですから、結構いろいろ、あります。


「足踏み」は一般的にはあまり歓迎されるべきではないものとして扱われています。定年間近の一番給料の良い年が一年減る、なんて例え方をされることもあり、まあそんな人によってはいつになるかわからないことははっきり言って心底どうでもいいのですが、とにかくこの「足踏み」というのは模範的な人生を送る上では、少々乱暴に言ってしまえば、”無駄”に思われてしまうことが多いのではないでしょうか。


起こってしまったことは変えられませんが、しかし"過去"の出来事を意味づけるのはその先の”現在”もしくは”未来”においてではないでしょうか。過去の経験が意外なところで生きたなあ、なんて経験をされたことがある方も、けして珍しくないのではないかと思います。


そこでここで一つ耳寄りなお話があります。それこそがあなたが『またぞろ。』という漫画を読むことに他なりません。
なぜかといえば、「足踏み」の経験があるあなたこそに、留年生たちの繰り広げる『またぞろ。』という作品をより深く理解するチャンスがあるからなのです。あなたの足踏み経験は、もしかしたら『またぞろ。』を読むためにあったのかもしれません。


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『またぞろ。』まんがタイムきららキャラットで連載中の、留年生やその予備軍の人たちがわいわいやる学園コメディです。
きらら作品らしい柔らかで可愛らしいタッチの女の子がたくさん出てくる、楽しくもあたたかく、そして少々毒というか牙というか、そういうものもあるコミックです。
ここからはわたしの感じた作品の魅力をご紹介していきたいと思います。

seiga.nicovideo.jp
なんと2021年5月15日まで、1巻の半分ぐらいを無料公開しており大変お得です。わたしもこれを読んで単行本を買いに行きました。


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「留年生というのは世界一、繊細な生き物なんです!」

穂波殊さんという主人公のリアルさ

穂波殊さんはこのお話の主人公なのですが、自他共に「人間がへたくそ」と評されてしまうような不器用な人です。朝一人で起きられないし、眠気には勝てないし、部屋は片付けられないし、人見知りをするし、失敗したらすぐに逃げようとするし、周囲の目を気にしすぎて縮こまってしまうし、自身の自虐的な姿勢にそのまま自ら潰されてしまいそうになります。
殊さんは作中でそこまで大きな失敗をしません。しかも彼女はよりよい学生生活を送ろうと何度も決心をしているのですが、そのたびに日常生活の色んな所にポコポコ空きまくっている穴に落ちてしまいそうになります。


冒頭でも軽く話したようにわたしにもまあ足踏みの経験があります。その上で殊さんのこういう不器用なところが非常に理解できると言うか、他人事と思えないと言うか、とにかくかなりのリアリティを感じてしまいます。

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『またぞろ。』第3回より。留年した次の年の入学式を早速寝過ごしてしまう殊。

このシーンはわたしのとても好きなシーンの一つです。わたしもまあ朝はどちらかというと大変弱いのですが、「やってしまった」朝というのはだいたいこんな感じではないでしょうか。
朝ってギリギリのほうがせわしないんですよね、そういうときは速攻で動けば間に合うかもしれないので自分としても急ぐんですよ。ただ致命的な寝坊だとそうはいきません。既に手遅れのはずの陽の光が差す自室は、自分ひとりが遅刻したろくでなしだということを除けば、さながら休日のゆったりとした目覚めの部屋のようです。
もはや起こってしまったことはどうあがいても覆せません。5分遅刻とジャストギリギリ間に合うことは時間ではたった5分の差ですが、遅刻したかどうかでは雲泥の差があります。一方で5分遅刻も10分遅刻も30分遅刻も「遅刻した」という事実の上では大して変わらないので、もはや急いでもしょうがないんですよね。


ここで殊さんが冷や汗をかきながらもちょっと笑ってることにリアリティを感じます。笑いっていうのは最後の自己防衛なんですよ。どうしようもないことをそのまま受け止めると辛すぎるし、とはいえ今やれることもないから、とりあえずちょっとでも笑い飛ばして心を軽くしようっていう意識があるんですよね。作中でも殊さんは、どうしようもない過去の事実を前にして、「へらっ」と笑い飛ばしたり、「笑い話にでもしていただければ……」なんて語ることが何度もあります。
書いてて苦しくなってきましたが、ひとつひとつ本当にリアルなシーンだと思います。致命的な遅刻を何度もやった経験があるか、こういう人の心理を相当理解していないと描けないシーンなんじゃないかなって思ってしまいます。


殊さんほど「持ってない」主人公というのも、感覚的なお話にはなってしまい恐縮なのですが、なかなかいないんじゃないかなという気がします。
一般的に不器用とされる主人公でも、物語を動かしていく上で一芸があったりします。それは「異様なぐらい他人に優しい」とか「ギターが鬼気迫るぐらい上手い」とか、あるいは「プライドが高く負けん気が強い」ぐらいでもいいかもしれません。なんやかんやでお話を――それぞれの人生をある程度自ら動かしていくことができるそうした主人公たちに比べると、殊さんはあまりにも繊細でか弱い人だなと感じてしまいます。

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『またぞろ。』第2回より。部屋を間違えたと思い込み狼狽する殊。

この作品の主人公たる殊さんは、もしかするとあまりにも不器用すぎるからこそ主人公なのかもしれません。読者のわたしたちは、きっと殊さんのどこかしらに、日々生活を送っていく上で「これ、アタシだ……」と共感する部分があるのではないかと思います。なぜならば現実には失敗をしない人はいないし、完璧な人もいないからです。


先程遅刻のシーンを例に上げましたが、たとえ留年していなくとも、遅刻の経験ぐらいは誰にでもあるのではないでしょうか。「やっちまった」ことを後悔する殊さんの姿を見て、ああ本当にこんな気持ちになるよなあという感覚が生まれた時、登場人物たちがあの世界で生きて生活をしているんだ、という確かな息吹のようなものを感じます。


『またぞろ。』という作品の大きな魅力のひとつに、このように(人間が下手くそな)人の心理をリアルかつ繊細に描くことのできる部分にあると思っています。


最後にもう一つ、殊さんの主人公としての大きな美点として、なんども再起しようと決心する志の高さがあります。
何もかもから本当に完全に逃げてしまっては、流石にそこで物語は終わってしまいます。けれども殊さんが弱々しくも、しかしけして人々の輪の中で生きていくことを諦めない限り、『またぞろ。』というお話の中で、穂波殊さんの再起の物語は続いていくのでしょう。絶対に幸せになってほしいなと思っています。

「留年界隈」というグループの魅力

殊さん以外にも多種多様な(?)留年生がこの作品には存在します。病気を患っていたため留年をしてしまった心優しく前向きな広幡詩季さん。飄々とした自由人っぽくも、留年の理由には謎が残る六角巴さん。天真爛漫で、留年はしていませんが遅刻常習犯で、実は一番危険な阿野楓さん。留年生が3人+候補が1人いても、その境遇は千差万別です。
留年生が最初に集められたことで、なんとなく集まっているこの「留年界隈」などと呼ばれる友人グループ。彼女たちに共通するのはどことなくアウトサイダー気味というぐらいで、まともに傷の舐めあいができるほどの共通点すらありません。


『またぞろ。』という作品は、人間グループにおいて”他人”が寄り添うことで生まれる絶妙な距離感を、コメディタッチでありながらも鋭く描いていきます。

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『またぞろ。』第4回より。太っていることを運動不足として嘆く殊と、太っていることを健康だと喜ぶ詩季。


入院などによる留年ではない殊さんは、決して詩季さんと同じ目線に立って「健康になったことを喜ぶ」ということへの共感はできません。一方で詩季さんからしても殊さんの苦しみがすべてわかるわけではないでしょうし、それはこの二人に限ったことではないと思います。それが自分と他人との距離というやつなのでしょう。
彼女たちは各々の心のなかに不発弾のようなものを密かに抱えながら、なんやかんやで互いのそれをコミュニケーションでつつき合ったり、あるいは回避したりしながら過ごしているわけです。


とはいえそんなアウトサイダーたちが集まったそのグループの空気感は生ぬるくもどこか安らかで、彼女たちの確かな居場所になっていることを感じます。


やったことがある方は感じたことがあるのではないかと思うのですが、留年というのは、否応なしに他の”普通の人”から明らかな”ズレ”が生まれてしまう出来事です。そうした"ズレ"は、いろいろなところからいろいろな人が集まっている大学に比べて、地域の関係がある程度そのまま継続される高校以下であればなおのこと、辛いものとなるに違いありません。


特に殊さんはそういう”ズレ”を人一倍気にして、自虐的になったりすることが多くあります。そんな彼女にとっては、例え留年(予備軍)ぐらいしか共通点がなかったとしても、同じスタートラインに立ってくれる仲間の存在はとても心強く、助けになっているのではないかと思います。
そしてそれはもちろんほかの二人の留年生にとってもそうではないでしょうか。留年生ではない楓さんがどうかはわかりませんが……とはいえ彼女にとっても楽しい空間であることは間違えないはずです。

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『またぞろ。』第2回より。巡り合った留年生たち。


こうして巡り会えた一つの縁があるとするならば、留年に遅刻、そんな”ズレ”があることも良いではないですか、そんなことをわたしは思ってしまいます。
ある意味では誰かが留年したことによって救われている人がいる、そういうことなのですから。

どうにもならない現実の中で

『またぞろ。』で描かれる人間の関係というのは先程話したように暖かなものですが、一方で現実は辛く厳しいものです。なぜならば、実際に殊さんたち登場人物はここに至るまで手痛い失敗をしているし、そして失敗をし続けているからです。
時々日常モノのような穏やかな空気感の作品を「優しい世界」などと評するのを見かけますが、果たして『またぞろ。』世界が”優しい”のか”優しくない”かということは、はっきりとわたしは判断できません。


作中で一度、アニメかドラマかわかりませんが、フィクションの映像が流れる部分があります。この中で「留年しちゃうよーっ」と嘆く登場人物は、次に描かれるシーンで「追試合格だったよー!」と喜んでいます。これを見て「現実もこんなだったらいいのになあ」とボヤいて、そのエピソードは幕を閉じます。
よく漫画の中で「そんなマンガみたいな」などと突っ込むことで暗に「この登場人物はマンガの中にいるわけでありませんよ」なんて示すセリフがありますが、『またぞろ。』においてはこのシーンは少し別の意図があるように思います。ここで重要なのは『またぞろ。』が現実かそうでないかではなく、留年が発生しない世界なのか、そうではないのか、ということです。
そして少なくとも、留年が発生するということにおいて、その作中のフィクションよりも『またぞろ。』は一歩わたしたちの生きる現実に近いと言えます。


物語においては、登場人物の決心や祈りというのは、時に世界の法則をも超越します。それが作られたフィクションとして当然の姿勢で、そしてそれこそが物語の整合性というやつで、あるべき”ご都合展開”であるからです。


しかし『またぞろ。』における現実というものは、登場人物の力でどうにもならない過酷なものとしてハッキリと存在しています。作中で何度か殊さんは「これから頑張ろう」と強く決心するのですが、そのたびに失敗してしまいます。
ああ、またまた、同じように失敗してしまった。また、こうなってしまった。又、候。
これこそが、またぞろ。

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この言葉をタイトルに冠する『またぞろ。』という物語は、そういう風にうまくいかないようにできているお話なのです。
さきほど殊さんには自分の力でぐいぐい世界を動かしていける力がない、なんて話をしましたが、それはこの『またぞろ。』世界そのものが過酷だということに他なりません。


『またぞろ。』のような過酷な現実を前にしたとき、人々は諦めるしかないのでしょうか? いやそうではありません、実際わたしたちは物語ではない現実を生きる上で、どうしようもないことに直面しながらも、えっちらおっちらなんとかギリギリで乗り切っていくしかないし、実際ここまでそうしてきたことと思います。
それは殊さんたちにとっても同じことなのです。たぶん彼女たちもそれをわかっているから、失敗してもまた懸命によりよくあろうと生きているのでしょう。


現実はよくできた物語のようにうまくいくことばかりではありません。社会に求められる完璧な姿、人から求められる完璧なイメージ、時にはそんなものにそのまま当てはまることはできないことがあったって、当然なのではないかとわたしは思います。


「なんせわたしたちは、留年生だからな」この諦めの籠もった自虐的なセリフに、同時にわたしはとてもおおらかなものを感じ、救われたような気持ちになります。人がゆっくりゆっくり生きることを許してくれる、そんな作品である『またぞろ。』は、たとえその世界が厳しくとも、とても優しい作品であることには間違えありません。
そしてそんな優しさにこそ、わたしは心が震えるのです。


人間がへたくそな人たちが送る、人間がへたくそな人たちのためのお話、それが『またぞろ。』なのだと思います。


あなたが現実で辛く苦しい気持ちになることがあるならば、このお話がちょっとした救いになることもあるのではないでしょうか。過酷な現代を生きるいろいろな人々に、是非読んでいただきたい一冊です。


人間失格

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