日陰の小道

私のロジックは私みたいな話をしたりします

アニメ『BLUE REFLECTION RAY / 澪』における、The Smiths / Morrissey要素の解説と考察〈8〉(第22話~第24話)

いよいよこのシリーズも今回で最終回です。
結局一年ほどかかってしまいました……。


<前回までの記事>(クリックで開きます)
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第22話 となりあわせの死(Death At One's Elbow)

今回は『Death At One's Elbow』ですね。詩集も同タイトルの「となりあわせの死」です。
スミスの4thアルバム『Strangeways, Here We Come』に収録されています。スミスのラストアルバムですが、なにげにブルリフRにサブタイトルとして採用されたのは今回が始めてです。

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カントリー調の疾走感がある楽曲です。歌詞はというと繰り返し”Glenn”に語りかける形式ですね。”Glenn”への「家に来ないでほしい(Don't come to the house tonight)」という懇願が主に繰り返されますが、その状況に関しては詳しく述べられていないため、空白がかなりある曲でもあります。

Oh Glenn
Don't come to the house tonight
Oh Glenn
Oh Glenn
Don't come to the house tonight
Oh Glenn
Because there's somebody here
Who really really loves you


(Death At One's Elbow / The Smiths


なぜ”Glenn”に家に来てほしくないのか。ハッキリしているのは、この家には”Glenn”を愛してやまない人(Who really really loves you)がいるようです。ここには様々な解釈ができ、主人公が”Glenn”の恋人と密会しているのかもしれませんし、あるいは主人公自身が”Glenn”に愛憎入り交じった感情を抱いているのかもしれません。”Glenn”という名は一般的に男性名ですが、女性の名前としても使われるらしく、その性別すらここでははっきりとしません。いずれにせよ、わかっているのは”Glenn”がこの家に来てしまうと、ろくなことにならなそうだということです。
ちなみに、『Death At One's Elbow』というタイトルはジョー・オートンという劇作家の日記から引用されたものだそうです。ジョー・オートンは恋人に殺害されて亡くなっており(恋人も自殺しています)この事件は『Strangeways, Here We Come』の発売と同年の1987年に『Prick Up Your Ears』というタイトルで映画化されています。こうしたところからも、この曲のストーリーの裏には事件性を感じずにはいられません。
曲でも”Glenn”への憎しみを歌いつつ、主人公は自殺をほのめかしています。

Oh, don't come to the house tonight
Oh, don't come to the house tonight
Because you'll slip on the
Trail of all my sad remains
That's why, that's why
GOODBYE MY LOVE, GOODBYE MY LOVE
GOODBYE MY LOVE, GOODBYE MY LOVE
GOODBYE MY LOVE, GOODBYE MY LOVE


(Death At One's Elbow / The Smiths

"Because you'll slip on the/Trail of all my sad remains"の一節からは、"Glenn"の前に主人公の死体があることを思わせます。"Glenn"が来るにせよ来ないにせよ、どちらしても”GOODBYE MY LOVE, GOODBYE MY LOVE”と悲劇的な終わり方を迎えてしまうようです。


アニメの話に移りましょう。曲に空白が多いためその関連を探すことも少し難しいですが、シンプルなものが1つあります。それは――あまりにもサブタイトルそのままですが――”死ととなりあわせ”ということです。
人の姿をした紫乃のフラグメントの出会いにより、陽桜莉たちは紫乃の過去を知ることになりましたが、それは想像を絶するほど凄惨なものでした。紫乃は母親によって「聖イネス教」の教祖「ネクナン様」として担ぎ出され、そこで弱者の排斥を訴える過激な思想を語らされています。そんな中、紫乃の双子の姉・加乃は母親からの暴力を日常的に受けており、紫乃は母の歪んだ教えと姉への虐待に苦しんでいます。自身の常軌を逸した思想の元、紫乃を救世主、加乃を殉教者と考える母は、いよいよ加乃を磔にして刺殺し、その血を紫乃に飲ませます。ブルリフRにて始めて直接的に描かれた、ショッキングな”死”のシーンです。



磔にされる水崎姉妹。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第22話より

『Death At One's Elbow』にて欲求不満と憎しみをつのらせた主人公は、自殺をほのめかし、自らの愛(あるいは、恋人)との決別を選びました。
この22話でもあまりの出来事に紫乃は悲しみ、またそれ以上に怒り狂って*1、最終的に自死を選びます。片足に靴はなく、更に血に染めている彼女の姿からは、半身を失ったことを思わせます。その失った半身というのはもちろん双子の姉である加乃であり、そして彼女の”想い”でしょう。この出来事から紫乃は、人間の”想い”は醜く愚かという考えを固め、本編でその悪である想いを管理せんと動いていました。



屋上から飛び降りる紫乃
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第22話より


死や自殺という点で楽曲との結びつきを探しましたが、もう一点。『Death At One's Elbow』のシチュエーションには、本来安らぎの場である家が他者の手によって揺るがされる、ということを見い出せるかもしれません。
今回そうした構図がアニメから見いだせるのは、水崎姉妹の幸福な時間に二人を連れ戻そうとする母、そして女子寮に乗り込んできた詩でしょうか。前話でつかのまの安らぎの時間を感じた女子寮での暮らしですが、今回コモンに乗り込まんとする決心をするや否や、詩からの襲撃にあってしまいます。幸福な閉じた世界というものは、紫乃と詩、二人によって脆くも崩れ去ってしまいました。すなわちこの作品は、つねに他者の関わりと共に苦しみの現実へと向かっていきます。


まんまとだまし討ちを成功させる詩。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第22話より

この回はとにかく紫乃の過去回想の内容が苛烈で、それだけでも”死”というワードの含まれたサブタイトルにしたことに納得感が生まれてしまいます。
それにしても「聖痕」という言葉といい、また善き盗人と悪い盗人のように対となる十字架の配置といい、聖イネスの磔の儀式はイエス・キリスト磔刑を強く意識していることを伺わせます。しかし聖イネスの「弱者は悪」と断ずる苛烈な姿勢は、イエスの説く隣人愛からはあまりにもかけ離れた、極めて俗っぽいものに感じられます。
「となりあわせの死」は単純に死ととなりあわせなだけではなく、となりあわせの人や愛を失ってしまった、という意味も持った悲劇的なタイトルに思えます。

第23話 すべてを手にしたきみ(You've Got Everything Now)

今回は『You've Got Everything Now』ですね。詩集も同タイトルの「すべてを手にしたきみ」です。
スミスの1stアルバム『The Smiths』などに収録されています。

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マーの瑞々しいギターとモリッシーの独特の響きが絡み合う、初期スミスらしい曲です。"きみ"はすべてを手にした(ou've got everything now)、一方で”わたし”は人生をだめにした(what a mess I've made of my life )と語ります。

But you've got everything now
You've got everything now
And what a terrible mess I've made of my life
Oh, what a mess I've made of my life


(You've Got Everything Now / The Smiths


モリッシーのことだから当然この”きみ”への言葉がそのままの意味ではずもなく、繰り返し”失ったわたし”と”手にしたきみ”という構図を貫きながらも、決してこの曲はその賞賛ではありません。
”わたし”には仕事がありませんが「そもそも欲しいと願ったことはなく(I've never wanted one)」更に「”きみ”が大きく笑ったところを見たことがない(I've never really heard you laugh)」しまいには、「誰が豊かで誰が貧しいかなんて言えないよね…(So who is rich and who is poor ? I cannot say ...)」と執拗な攻撃を繰り返しています。

No, I've never had a job
Because I've never wanted one


I've seen you smile
But I've never really heard you laugh


So who is rich and who is poor ?
I cannot say ... oh


(You've Got Everything Now / The Smiths


「すべてを手にした」ものが何なのかは特に語られませんが、仕事などのワードから予想できるのは、恐らく社会的に立派とされている地位だとか財力だとか、そうした類のものでしょう。やはりここにも『Hand In Glove』などに見られた、真実の価値を知っているわたしたちと、そうではない世の中の奴ら、という対立の構図があります。
ですが『You've Got Everything Now』にあるのは『Hand In Glove』にあった力強さよりも、とにかく”わたし”からの恨み・妬みを感じさせます。語る内容も強がりめいており、諦念の色が強い曲ではないでしょうか。かつて学校では”わたし”は”きみ”に勝っていたらしいですが(Back at the old grey school / I would win and you would lose)そんな人が学校生活を灰色(grey)に例えるのでしょうか?


アニメの話に移りましょう。最終回一歩手前、いよいよ紫乃のコモンへと向かう陽桜莉たちですが、そんなエピソードに「すべてを手にしたきみ」というサブタイトルはそのままでは今ひとつ繋がらないように感じます。むしろ、このエピソードで繰り返し描かれるのは”喪失”であり、手に入らなかったという"欠落”です。今回は”きみ”が誰かという話ではなく、むしろその裏に隠されている”すべてを失ったわたし”の話なのだと思います。これは、『You've Got Everything Now』曲のスタイルとも合致します(結局のところ、”きみ”がどう成功したかではなく、”わたし”の失敗がこの曲の重要なポイントでしょう)


紫乃の支配するコモンは、彼女の意志によって訪れたリフレクターたちの心理的な弱点を攻めてきます。
仁菜は望の形をしたフラグメントに貫かれます。
美弦と百の前に現れたのは、彼女たちがかつて倒せなかった原種「ネツァク」です。
涼楓の前には亜未琉が立ち塞がり、彼女の心をかき乱します。
陽桜莉と瑠夏の戦いの根幹にはリフレクターの力で人々の想いを守るという理想がありますから、襲い来るフラグメントの少女たちは、すべてリフレクターが守れなかった想いです。


過去を呼び起こす幻覚はコモンの紫乃による攻撃ですが、他の人物に関してもやはり心理的な”欠落や喪失”が見いだせます。
都はリフレクターの力を持たない無力感に悔しがっています。
詩は仁菜の、詩にとって絶対的な価値である人の感情である「痛み」を受け取ることができずに激昂しています。
これらに関係するのはすべて彼女たちの過去の失敗であり、後悔であり、今までの人生で手にできなかったことです。


美弦と百の前に再び立ちはだかるネツァク。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第23話より


「すべてを手にしたきみ」というタイトルには、手にする/しないという点で、2話前の第21話タイトル「まだ何もものにしていないよ(You Just Haven't Earned It Yet, Baby)」と繋がりがあるようも感じます。紫乃の掘り下げという22話をはさみつつ、最終決戦前の21話と突入後の23話の状況は連続しています。
紫乃に寄り添うこと、亜未琉の想いを取り戻すこと、世界を救うこと、これらは全てコモンにてフラグメントを取り戻すことで実現できます。壊れてしまった人々や世界を取り戻し、少女たちが少しだけ前に進むことができるような世界を実現させる。そんな本当に微かな一歩を踏み出すためのクライマックスへと進むために、リフレクターたちは過去と向き合います。
このアニメでは長らく平原姉妹のすれ違いのすれ違いが描かれてきました。積み重ねの結果として、美弦の偽物を見抜く陽桜莉のシーンがこのエピソードで登場することには、明確に示された過去からの脱却というカタルシスがあります。瑠夏は偽の美弦に対して「背中の傷」を指摘しますが、過去についた傷があってこその今、ということでもあるでしょう。



偽の美弦という揺さぶりを、陽桜莉たちは跳ね除ける。
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第23話より

このシーンが紫乃が作り出した幻とすると、紫乃的には美弦が自分を見捨てると思っているという意味もありそうで、苦しいですね。2クール目後半の展開はずっと紫乃が苦しんでいるため、見返していても最終回が待ち遠しく感じられてしまいました……。

全てを失った、で言えば今のコモンの主であるはずの紫乃その人が、今回頻出の”失った人”の構図に、もっとも悲劇的に当てはまってしまうでしょう。聖イネスにビルの屋上と、今回のコモン探索は紫乃の深層心理めいています。これらは全て失い続けた彼女の軌跡であり、彼女がかつて死へと進んでしまった道筋です。紫乃は自身の愛する姉を失い、そして想いを自ら消し去りました。彼女の消えた想いは人型であるように半身であり、紫乃と彼女のフラグメントは双子の姿によく似ています。
このエピソードでは紫乃はほとんど登場しません。長いコモンの世界を抜けて、次回いよいよ陽桜莉たちは紫乃と再会します。

第24話 ブルー・リフレクション

いよいよ最終回です。今回の元ネタタイトルは……ありません! 実は別にブルーリフレクションのシリーズ自体にスミス/モリッシーの引用要素はないからです。それはそう。
とはいえこの記事はスミスとモリッシーの話をする記事なので、好き勝手に話して行きましょう。



サブタイトルとしては第1話「消えない光(There Is A Light That Never Goes Out)」以来の光要素でしょうか。1話の記事を書いていた時はまだ1クール目の放送をしていたような時期だったので、あまり作品全体としての話ができていませんでしたが、最終回を迎えて改めて語れることがありそうです。


『There Is A Light That Never Goes Out』は居場所のない家からの逃避の歌でした。1話でも家出の話が出てきていますが、まさにこの何話かの紫乃の目的は家出とも言えます。自由がなく、家から、そして想いから逃げ続けた彼女は、陽桜莉たちに手を引かれてようやく家に、現実に”帰る”ことを決めます。『There Is A Light That Never Goes Out』が逃避の果てに君と2階建てのバスに衝突して死にたい、と語っていますが、生きることを決めた紫乃の進む先はこれとは逆です。行きて帰りしこの流れには”反射(リフレクション)”を見出すことができるかもしれません。

Take me out tonight
Where there's music and there's people
Who are young and alive
(There Is A Light That Never Goes Out / The Smiths

『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第24話より


他にも姉・美弦から指輪を(紆余曲折の果てではありますが)受け継いだ陽桜莉の物語の終着点。今振り返ると、「消えない光」というのはやはり当時行方不明の美弦の想いが消えないこと、またかつての姉の意志を陽桜莉が受け継いだということだったのではないかなと思います。この最終話での紫乃との対峙も、美弦から陽桜莉へとバトンが受け継がれています。それは美弦が先行することと、紫乃のフラグメント託すことによって表現されます。


また、『BLUE REFLECTION』の「ブルー・リフレクション」ですから、これの2つは「The Smiths」の1stアルバム『The Smiths』と同じ関係ですね。せっかくなので(?)『The Smiths』の曲の話をします。



陽桜莉と紫乃のかつての出会いの場として噴水のある公園が登場しますが、噴水と言えば『The Smiths』の1曲目に『Reel Around The Fountain』(詩集タイトル:噴水のまわりを千鳥足で)という曲があります。この曲は主人公の子どもが大人に誘われる曲です。この曲の大人からの誘いは性的なものを連想させますので、このエロティックな空気感とアニメは一致しませんが、子どもの頃から時間が止まってしまった紫乃の手を引く陽桜莉と瑠夏、という構図には近いものがあるのではないでしょうか。手を引かれ誘われることで、少女は少し大人になります。

Reel around the fountain
Slap me on the patio
I'll take it now
(Reel Around The Fountain / The Smiths

『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第24話より


今回は明確な元ネタがないせいか、普段以上に好き勝手な結びつけで話している気がしますね……。
第24話に関しては昨年末に、一年のアニメの単話を選出する記事で別に感想を書いています。折角ですのでこの記事にもリンクを貼っておきます。
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最後にもう一曲、『The Smiths』のアルバムから紹介したい曲があります。それはラストトラックの『Suffer Little Children』(詩集タイトル:受難の子どもたち)です。ちなみに、モリッシーとマーが共同で作った最初の曲の1つとのことですから、ある意味ではスミスを象徴する曲と言えるかも知れません。
『Suffer Little Children』は、マンチェスターで子どもたちが次々に殺害されたムーア殺人事件(ムーアズ殺人事件)がテーマとなった楽曲です。ブルリフRは常に虐げられる子どもたちを描いて来ましたので、どうしてもこの曲を無視することができません。ちなみに、『Suffer Little Children』というのは聖書の一説が元ネタということらしく、ここにも聖イネス教との結びつきを見いだせます。
あまりにも悲痛な色でアルバムの最後を飾るこの楽曲の一節と、モリッシー詩集での訳を、ここでは引用したいと思います。

Oh Manchester, so much to answer for
Oh Manchester, so much to answer for

Oh, find me, find me !
Find me !
I'll haunt you when you laugh
Oh, I'll haunt you when you laugh
You might sleep
BUT YOU WILL NEVER DREAM !
Oh ...
Over the moors, I'm on the moor
Oh, over the moor
Oh, the child is on the moor


(Suffer Little Children / The Smiths

ああマンチェスター、おまえはとても罪深い
ああマンチェスター、おまえはとても罪深い
ぼくを見つけて、ぼくを見つけて、ぼくを見つけて
あなたが笑うとぼくは現われる
あなたは眠れはしても
決して夢をみることはない
荒れ地の彼方、ぼくは荒れ地にいる
荒れ地のずっと遠く
荒れ地の子供


モリッシー詩集「受難の子どもたち」より

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アニメは物語として一つのハッピーエンドを迎えましたが、現実の世界は、『Suffer Little Children』などの死という揺るがない結果を伴う、このどうしようもない悲劇から逃れることはやはり今でもできていません。
しかし結局のところ、わたしたちが苦しんでいる他者に対してできることは「見つける」ことしかないのかもしれません。わたしたちはその唯一残された方法をなんとか使って、世界をよりよくしていくしかないのです。あくまでも殺人事件をテーマにしたこの楽曲を最後に引用することが適切とはいえないかもしれません*2が、しかし「見つける」というワードにはなにか感じるものがあります。
子どもたちの荒野に花は再び咲くのでしょうか。全てはこの世界を生きる、わたしたちの肩にかかっていると言えます。



『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第24話より


さいごに

ということで『BLUE REFLECTION RAY / 澪』のサブタイトルの元ネタである、The Smiths / Morrisseyの簡単な解説と、サブタイトル(とその元ネタの楽曲)からエピソードの読解を試みる記事もようやく完走です。普段アニメを単話ごとに記事を書く、なんてマメなことは全くやらないものですから、挫折しかけたりもしましたが、こうして最後まで書くことができて満足しています。これも『BLUE REFLECTION RAY / 澪』がわたしにとって非常に刺さる作品だったから、ということに尽きると思います。それと同時に、The Smithsがわたしがよく聞いていたバンドというのももちろん大きいです。しかもこの2つに両方ガツンと殴られている人って多分マジでほとんどいないんですよね。別ジャンルすぎる。


元ネタ探しに難航して複数の曲の話をすることになってしまった5話を見ていただくと顕著ですが、こうした解釈というものはその気になればいくらでもやりようがあると思います。ですから「この記事をもってアニメと楽曲の結びつきを紐解いた!」というのはあまりにもおこがましいですし、あくまで「そこに結びつきや答えがある」という前提での読解は偏りもあると思います。しかし、モリッシーの歌詞がブルリフRというアニメ作品を貫く一本の糸であることは疑いようがなく、この仕掛けには単なる遊び心以上のものがあるとも思っています。これがバンドアニメとかだったら納得もできます*3が、そうじゃないですからね。


ブルリフRは社会的な弱者の子どもたちの話でした。スミスやモリッシーがそうした弱者たちのアイコンとして扱われることが多いのはやはりあり、そういう意味でもこの両者には結びついて然るべきカラーがあるとは思っています。これに関しては、サブタイトルに引用された楽曲の内容に触れてきた今までの記事で、それなりに語れたのではないかと思っています。
あとはやはり以前の記事でも触れた通り、”花”のモチーフでしょうか。他の『BLUE REFLECTION』シリーズにおいてフラグメントは花の形をしていません。澪特有の花というモチーフは、The Smithsにも共通する要素です。スミスのライブ会場を花で飾り付けたり、花束を振り回すパフォーマンスなどは有名です。アニメにおいても、この花のモチーフは踏みつけられる路傍の花、などの形で上手く扱われていたと思います。

youtu.be
『This Charming Man』には”指輪”も登場します。


少女たちの物語であるブルリフに対して、サブタイトルの引用のみとはいえ、男性ボーカルのアーティストを起用するのも「敢えて」という感じがしなくもありません。ブルリフRで描かれていたことは、あくまで普遍的な話で、性差はないと感じています。アニメの画面にはほとんど女性しか出てきませんが、女性性が強調されるシーンもあまりなかったように記憶しています。
The Smithsは先程の花だらけの様子からも分かる通り、いわゆる男性的なマッチョ感とは(モリッシーの外見のゴツさとは裏腹に)対局にあるバンドです。ブルリフRという生地の裏地に男性バンドを縫い付けつつ、そのバンドをスミスにするという選出によって、この作品は中性的なカラーを生み出しているのではないか、と思っています。


アニメの話をここまでブログの複数記事にわたってやるのは始めてですが、それだけ力のある作品だったなと感じています。それにしてもここまでの作品のブルーレイが現状発売されていないのはとにかく悔しさを感じてしまいます。「ブルーリフレクションレイのブルーレイ、発売しちゃいま~す!」ってCMが完全に泣きアニメになると思ってなかったですからね。円盤が中止になったからCMも録画を見るしかないんだよな。
正直そうした飢餓感からの原動力もこの記事の一部にあったとは思いますが、そろそろ発売して欲しいなって思っています。ホラ、ガストちゃんには他のコンテンツ*4でもなんだかんだちょいちょい貢いでるからさ……なんとかなりませんか? マジで。

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*1:過去回想で紫乃のフラグメントは「怒りのゾーン」にありました。

*2:楽曲において、「見つける」ということは救いではなく、悲痛な遺体の声と解釈されていたりします。

*3:アニメ『天使の3P!』でバンドネタが使われることに疑問を抱く人はいないでしょう。

*4:https://social.gust.co.jp/kakutora/