日陰の小道

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『フタコイ オルタナティブ』と、追憶

2023年の今になって、2005年のアニメフタコイ オルタナティブを見た。メディアミックス双恋シリーズにおけるアニメ作品で、前作アニメ『双恋』から設定などを変更した挑戦的な作りのアニメだったらしい。


制作はufotable、studio FLAG、feel.の三社共同。今、ufotableといえば『鬼滅の刃』のメガヒットが目覚ましく、他にも『Fateシリーズ』なんかも含めて、もはやマニア以外も巻き込んで熱烈に支持されている有数のヒットメーカーというイメージがある。しかし18年前のufotableらが作ったこのアニメは、ものすごく深夜然としたというか、いかにもオタクっぽいアニメですこし驚いた。1話でも美少女二人が冴えない主人公と同居していて、パロディやオマージュ満載のスラップスティック・コメディが繰り広げられて、そして何と言っても理由なく美少女の下着が見えたりする。
そのちょっと後のアニメ『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』なんかを考えるとこういう風なマニア方面の作品があることは全く不思議でもないのだが、しかしかつてはこんな深夜アニメを作っていたのだなあと、つい昔に思いを馳せてしまった。

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ところで、ぼくはこのアニメの舞台である二子玉川(アニメ作中では二子”魂”川ともじってある)の近くに住んでいたことがある。特に劇的な出来事があったわけでもないのだが、気がついたらなにもかも上手くいっていなかったぼくが、大学を中退して*1東京に越してきて住んだのがこのあたりだった。東京とはいっても本当の住所は川を挟んだ神奈川県川崎市で、結局それから一度も東京都民になったことはないのだけれど。
その時ぼくは渋谷のあたりの専門学校に通っていて、それで田園都市線の沿線で暮らしていた。でもぼくはお金がなかったので、電車賃の節約のためにそれなりの頻度で自転車に乗って渋谷のあたりまで移動していた。二子玉川というのは、その通り道であり、東京の入り口だったわけだ。

ちなみに、そんな風にぼくが自転車で二子玉川を抜けたり立ち寄ったりしていたのは、二子玉川ライズ・ショッピングセンターが開業した後のあたりのことだ。だからぼくにとっての二子玉川の印象というのは真新しくて、きれいに整えられた地面に、ガラス張りのデパートの壁はきらきらとしている、そんなおしゃれな街だった。
渋谷方面に向かうときの一つ前の川崎市の駅、二子新地のあたりにはまだ結構下町情緒があって、狭い路地の左右に店が立ち並ぶようなちょっとした商店街なんかがあった。そういうちょっと雑然とした道を抜けて、川に出ると一気に視界が開ける。東京との境目である多摩川にかかる二子橋をすいすいと自転車で超えていくと、急に力強く天を衝くビルが立つ二子玉川に到着する。川崎市から世田谷区に入ると、一気に別世界に来たように様変わりするのが面白かった。

当時のぼくは、いや、その土地を離れた後もぼくは二子玉川の歴史にそれほど思いを馳せることもなく、だからこの二子玉川の光景というのがぼくが住んでいたちょっと前の、再開発を経ての姿ということを考えることもなかった。

フタコイ オルタナティブ』というのはまさにその少し前の時期の、二子玉川の雑然とした商店街が舞台になっていて、作中で住民が再開発の反対運動をするという一幕もある。聞くところによると、『フタコイ オルタナティブ』の聖地というのも、街の変化でいくつか失われてしまったものもあるそうだ。確かに今のぼくがアニメを見ても――その川崎市に住んでいたのがもう結構前ということを加味したとしても――今ひとつぼくの記憶の中の二子玉川の光景とは一致しなかった。
今となっては二子玉川ライズ・ショッピングセンターも開業10周年を迎えている。かつての二子玉(魂)川の街というのは、このアニメの中にしかないのかもしれない。

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フタコイ オルタナティブ』はそうした失われていく街の変化に主人公・恋太郎の境遇や心境を重ねつつ描いていく。恋人というわけでもなく、家族でもなく、そんな定義されない不思議な、しかしだからこそ心地よい生ぬるい関係……二人の双子・沙羅&双樹と恋太郎という3人は、「大人になること / 変化すること」を否定するように「三人でいたい」という望みにしがみついている。3人が時間の経過と共に失われつつある「今」に固執するのは、巨大な再開発といううねりの中で無力にも抵抗する、地域住民の姿に似ているようにぼくは思う。沙羅や双樹が結婚ということに度々忌避感を見せるのも、それが「恋太郎を奪うもの / 自らを望まぬ鎖に縛るもの」という物語上の意味合いに加え、男女という関係における変化への恐れの表現なんじゃないだろうか。同様の恐れは恋太郎側にもある。恋太郎は二人のうちどちらかを選ぶこともなく、そして抱くこともできない。

1話の破天荒なドタバタ喜劇は沙羅と双樹の秘密が明らかになるにつれて鳴りを潜め、中盤にアニメを支配しているのは陰鬱さを伴う、別れを感じさせるような寒々しい秋の空気になってくる。結局沙羅が一人去ることでこの3人の穏やかな日常というのは決定的に崩れてしまうのだけれど、面白いのはこのアニメは3人のこのモラトリアムめいた失われゆく日常を一度揺さぶった上で、しかし最終回にほぼ再びこの生ぬるさに回帰していることだ。沙羅を取り戻すために、アニメは再び破天荒さを取り戻して、謎の組織を相手に謎の怪物イカファイアーと対決する、なんてハチャメチャな話になっていく。イカファイアーと黒幕の組織をぶん殴って、3人は日常へと戻ってくる。
ぼくはシリアスでリアリティのある”現実”のシーンと対比して、この破天荒さって”アニメ”っぽさと言えるんじゃないかと思う。ちなみにここで”アニメ”というのは子供っぽさでもあって、終盤の展開の中でおじさんキャラクターが野球少年の夢を思い出してボールを投げて戦ったりする。それはともかく、つまりこの作品というのは”アニメ”(序盤)→”現実”(中盤)→”アニメ”(終盤)と、最終的にやっぱり”アニメ”を取り戻しているのだ。
双子の美少女なんていかにもフィクションめいている。沙羅と双樹の存在って、いい具合に現実から乖離してるんじゃないかと思う。*2

ところで、恐らくこの作品が影響を受けているだろうと思う作品にガイナックス作のフリクリというアニメがあるんだけど*3、この『フリクリ』では”アニメ”っていう破天荒さは日常をぶち壊すセンセーショナルなもので、それはハルコっていう「外から来た / きらびやかで / ワルで / 大人の女性」っていう少年にとっての憧れそのものだ。そしてフリクリというのはそのハルコとの別離によって少年は”現実”に回帰して、失恋の苦さと共に一歩大人になるわけだ。

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一方の『フタコイ オルタナティブ』というのは逆にこの破天荒さ(アニメっぽさ)こそが回帰すべき日常の象徴で、だから別離をぶっ飛ばして元の3人という、よくわからない関係に戻って終わる。このなんともぬるい終わり方を、しかしぼくはだからこそ愛おしくも思う。
このアニメはけして変化を否定しているわけじゃない。それは、作中にて双子が忌避した結婚というイベントも、「サブキャラクターの結婚式を3人が祝う」というシーンとして、肯定的に再登場していることでも表現されている。いずれ直面する変化を3人はしなやかに受け入れつつも、変わらぬ日々に再び埋没していく。自分にとっての世界を変えるようなヒーローになれるわけでもなく、否応なしに訪れるこの変化を受け入れつつも、だからこそ頑張っていこう……っていう。小市民的だし、前向きなんだか後ろ向きなんだかわからないけれど、地に足の付いた力強さがある結末だと思う。
この結末にたどり着いた恋太郎は、初めて幻想の中で父と正面から対峙する。偉大なる父親というのも繰り返し描かれてきたこのアニメの壁なんだけど、何もかもいつかは朽ちていく、このほろ苦さを受け入れることが大人になるってことなのかもしれない。


フタコイ オルタナティブ』ってアニメだったんだけど、思い返そうとしてみると脳裏に浮かぶのはカラフルでビビッドな光景ではなく、しかし薄暗くてグレーな時間でもなく、あの『7DAYZ(…and Happy Dayz)』*4のクライマックスのぼやけたオレンジのノスタルジックな光景だ。

ぼくは、ぼくの知らない二子玉川の夕暮れに、美しい思い出を見ている。

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アニメをみおわったぼくらは、再び現実の中に放り出されてしまう。


ぼくが二子玉川――というか、川崎市を離れてから、もう結構経つ。あまり覚えちゃいないがあの頃のぼくは今よりもうちょっと自分の人生への取り組みに対してバイタリティがあって、一度コケたそれを立て直そうじゃないか、なんて気持ちもあった気がする。とはいえ振り返ってみたらその時に頑張っていたことだって、自分の人生を変えたりできたわけじゃあないし、振り返ってみたらどれだけ”役に立った”かなんて怪しいもんだ。

結局のところ、やっぱりぼくはなんだか上手くいかないこの人生に対して、のらりくらりとやってきたままここまで来ているわけなんだけど、なんか別にそれだってそう悪くないんじゃないかと思っている。
グレーな現実に立脚している人生なんてものに、どれだけカラフルでビビッドでドラマチックなことがあるかなんて疑わしく、結局それってフィクションの中に、アニメの中にしかないんじゃないか? なんて思ったりもしてしまう。ぼくにとっちゃ、老いを大げさに恐れてみたり、人生のステージを進めていかなくてはいけないことへの強迫観念だとか、なんだかそういうのこそ嘘っぽく感じてしまったりもする。こういうのも今はわからなくても、後から振り返ってみると自分の中で物語ができあがったりするかもしれないけどね。

「でも、それでもなお、結局のところ俺たちはわかってる部分を、目の前に横たわる俺たちの人生ってやつを、全力で、馬鹿みたいに全力でやっつけていくしかない。そうすることしかできないし、多分、それでいいのだ。」


(『フタコイ オルタナティブ』FILM-13より)


そんなこんなで、今日もぼくはまたアニメをみている。


*1:フタコイオルタナティブ』の主人公・恋太郎も大学を中退しているらしい。

*2:双子は他にもいっぱい出てくるので、ますますフィクションめいている。

*3:2000年作。スラップスティック・コメディを基調に少年のモラトリアムや成長について描いた作品。他に共通点として、例えば『フリクリ』と『フタコイ』はどちらも作中でこの不思議なタイトルの言葉の意味ってなんなんだ、というようなシーンがあったりする。オルタナティブうんぬんは世代が違うから置いとく。

*4:FILM-04(第4話)